《教会を知る Vol,2》 2種類のキリスト磔

美術館でも、本の中でもそうだが、キリストが十字架にはりつけられているにもかかわらず、目をバッチリと開いている姿に出会うと私は少し不気味に感じる。
それが薄暗い教会の中であれば、出会った瞬間ギョッとしてつい目をそらしてしまうだろうと思う。
それとは逆に目を閉じてぐったりと吊るされるキリストは、本来であれば痛々しい姿にもかかわらずいつも通りの見慣れた姿に安心する。

f:id:shima-ad-studio-cojima:20181127232000j:image

この2種類のキリストの磔には昔の人々の全く違った心理が隠されている。
まず見分け方は簡単である。
目を見開き手足もピンと伸ばし脇腹に傷もない生きるキリスト。(洋服を身に纏っていることもある)

目を閉じ手足もだらっと垂らし脇腹に傷を持つ死せるキリスト。
私たちが教会で見つけやすいのは後者の方だと思う。

f:id:shima-ad-studio-cojima:20181127231119j:image

この違いは以前も書いたように、元々の純粋なキリスト信者と、異教徒からキリスト教へと移っていったものたちの考え方の違いが関係する。
それは人間信仰か自然信仰かに大きく左右されるのだが、
前者の場合は人間の起こす奇跡が信仰の対象となる。
なので磔られ死んだとしても復活する奇跡を目の前に拝むことが求められた。
後者の場合は自然が最も偉大であり、そのために捧げる生贄が重要であった。
そのためキリストが自然への生贄として死をもってその身を捧げる姿を望んだのである。

この違いもクリスマスの日付のようにまた絡み合った複雑さを含むのだが、最終的に目を閉じたキリストを多く見かける今、そちらに軍配は上がり折り合いをつけたのだと想像する。

この目を開いたキリストに会うためにはロマネスク教会を訪れるのが一番の方法だが、昔の小さな教会は田舎にあるのが常で、それだけのために旅程を組まなければならない。
そんな時は都市にある美術館や博物館を訪れるのも1つの方法である。
宗教戦争などの結果ではあるが奇跡的に残った一部として展示されているその姿は見ることができると思う。

教会で出会う目を見開いたキリストに1人で会いに行くのは少し怖い。。
目が合ってしまったらどうしようかと思う。
特にゴシック教会とは違い、窓も小さく天井も低いより暗い暗闇の中で、その姿はきっとじわ〜っと浮かび上がるのだろう。
今回これを書くのに美術館では観たはずである目を見開いたキリストの写真を探してみたのだが、一枚も見つけることができなかった。
もしかしたら無意識のうちに、人間が生き返る奇跡に怖さを感じ避けていたのかもしれない。
ただ、いつかは小さな教会に足を運び、それに出会おうとは決めている。