私の苦手な芸術家、レオルド・ダ・ヴィンチ

大学生の頃一番面白いと楽しみにしていた授業が布施英利先生の『解剖学』だった。
そして最近布施先生の新書が出るということで、早速本屋さんで手に入れたのが『ダ・ヴィンチ、501年目の旅』である。

正直な話、私はレオルド・ダ・ヴィンチがあまり得意ではない。
世の中では散々彼について多くの書籍が出ている中、西洋美術も本も大好きな私が気がつくと避けていた芸術家である。
それがなぜか、この何ヶ月かで彼が私の周りでチラチラと顔を覗かせているのである。
まさかここの場でレオルド・ダ・ヴィンチについて書こうなんて、考えてもみなかったことなのだが、今がそのタイミングかと思い、一度今の想いを記すことにした。


まずなぜ私がレオルド・ダ・ヴィンチを避けていたか。
無意識が半分、また自身で気がついている点も半分ある。

一つはあまりに凄すぎるからである。
美術に興味がなくても誰でも知っている存在であり、芸術家としても研究者としても、軍事的な面でも、天才と言われる人物。私が少し彼について学んだからといって果たして理解ができるのか。できるとは到底思えず知ることすら遠ざけていた。

もう一つは絵画との向き合い方である。
彼の絵は計算の上で成り立つものが多い。黄金比へのこだわりや遠近法の扱いは、まずそれを叩き込んでからではないとレオルド・ダ・ヴィンチの作品と向き合ってはいけないのでは、というに気になってしまうし、人体についてもそうだ。構造を理解し熟知した上で向き合わなければ、彼の絵はなんの謎も私には解かしてくれないだろう。

なんとも子供じみた理由で恥ずかしいが、そんな想いも含め、無意識にも知ることを避けて生きてきてしまった。


ただ思い起こせば私は彼の作品をよく見ている(見に行こうとしている)ことにも気がつく。
モナリザ』も2作の『岩窟の聖母』も『最後の晩餐』も『スフォルツァ城の天井画』も。
そして今年予定していたフィレンツェでは『受胎告知』や『東方三博士の礼拝』、『キリストの洗礼』(これは部分だが)、そして今はなき『アンギアーリの戦い』の雰囲気すらも見にいく予定でいた。
気がつけば、最近、二回目の『ダ・ヴィンチ・コード』すら観てしまった。

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夏休みにしては空いていた『モナリザ

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『最後の晩餐』は唯一これを見るために向かった

ただこれには理由もある。私は「ミケランジェロ」にとても興味があるということだ。
実はどの場所も(『最後の晩餐』以外は)ミケランジェロを見るために向かった場所である。
同じ時代を生き、ルネサンスを築き上げた「三代巨匠」のうちの二人。(もう一人はラファエロ
ミケランジェロを知ろうと読む書籍には大抵、対になるようにダ・ヴィンチが現れるのだ。
最近読んだ一冊では「序章」から「ミケランジェロとレオナルド」の見出しが入り、その比較は永遠に続いていく。

そして極めつけるように新しい書籍を布施先生が出したことで、私が避けていたダ・ヴィンチと向き合う機会が今生まれてしまったのだが。ただ、布施先生の文章を読んでいると実はそこまで気負わなくてもいいのではという気持ちにもさせてくれる。まるで学生の時に戻ったようで、授業を受けているような言葉や筋立ての感覚は、めずらしく心地よいダ・ヴィンチ体験であった。

でも、それでも。多分これからも私のダ・ヴィンチへの劣等感や親近感のわかない気持ちは、そう簡単に消えていくことはいと思う。同じ人間とは思えないようなこの天才が、やはり怖くてたまらないし、知れば知るほど絵の前に立った時の見透かされたような感覚も増すような気がする。
その一方でいつまでも彼を無視しているわけにもいかないこともよく分かっている。
彼を通らなければ、ミケランジェロにも手は届かないし、本当のイタリアにも出会えない。
せめてフィレンツェに行く前に。(悲しいことに時間はたくさんできたから)
今はミケランジェロの陰からチラチラと顔を覗かせる彼と、正面から対峙する機会を作らなければいけない。

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