『モナリザ』がルーヴル美術館にある理由

前回せっかく重い腰を上げレオナルド・ダ・ヴィンチに触れたので、もう一つ、彼を通して書いてみたいことがある。

世界でも一番と言ってもいい有名絵画の『モナリザ』。
イタリアで生まれ、イタリアで育ち、フィレンツェ、ミラノ、ローマで活動したダ・ヴィンチのこの最後の傑作が、なぜ今フランス、ルーヴル美術館の所有で、そこに堂々と飾られているのかを知っているだろうか。
こういった場合、戦争での戦利品として持ち去られたというケースが多く、以前書いた「サンタ・ルチア」のミイラもそうだし、ローマのオベリスクもそうである。

ただ『モナリザ』の場合は違う。ダ・ヴィンチ自らがフランスに手渡したものなのだ。

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ダ・ヴィンチが生きた時代はまさにルネサンスの最盛期。豪華王とも呼ばれるメディチ家のロレンツォがこの時代を握っていた。今フィレンツェに豪華な美術品がひしめき合うのも、美へのこだわりを持ち、芸術にかけるお金を渋らなかった彼のおかげと言ってもいいだろう。
しかし何故かダ・ヴィンチは彼には気に入られなかった。
描く技術と魅力ではきっとフィレンツェで抜きに出ていたであろう芸術家をロレンツォは自国で大切に育てるでもなく、ミラノの公爵に紹介したのである。それはダ・ヴィンチフィレンツェだけに収まらなくなったきっかけともなる。

そのあとはそのミラノで16年を過ごし、パトロンの失脚や死去によりイタリア中を点々と渡り歩くこととなる。まさにこの時代に翻弄されるような人生である。
そして転機は1516年。ダ・ヴィンチの才能に惚れ込み尊敬と好意を寄せたフランス王フランソワ一世がその時代に翻弄されていたダ・ヴィンチに声をかけたのであった。

フランソワ一世はダ・ヴィンチにまず城を提供する。そして十分すぎる年金を与え、彼に自由を与えた。何を注文するでもなく、ただこのフランスにいてくれるだけでいいと言って。
今までわがままな注文に振り回され、やりたいことにも集中できないそんな人生を過ごしてきたダ・ヴィンチには最高の待遇であったのだろう。
500年後の今から見れば、その才能を最も近くで感じてきたイタリアがなぜ引き留めなかったんだと簡単に思うこともできるが、芸術家の溢れる変革の時代、芸術を求めるものも本当の美しさが見えていたわけではなく、私欲が優っていたのかもしれない。

フランスでの幸せな時間は3年間だったが、その幸せの中にダ・ヴィンチは永眠することとなる。(彼の亡骸もフランスのサン=フロランタン教会に埋葬されたのだが、こちらはフランス革命の戦火の中で行方知れずとなり、その後発見されるも未だ本物か調査中)
そして遺言にて彼がどこに行くにも持ち歩き、最後の最後まで描き続けたという、彼の最高傑作『モナリザ』をこのフランス王に遺贈すると遺したのである。
彼の人生を大切に思ってくれたフランソワ一世だからこそ、最も大切にしていたものを預ける決意に至ったのかもしれない

ということで、堂々たる理由を持って『モナリザ』は今、ルーヴル美術館の主役としてその存在感を見せつけているのである。

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この話は、実は今の日本においては他人事ではない問題だと私は感じている。
ダ・ヴィンチの話を見れば、なんでイタリアはあんな天才を最後まで大切にしなっかたのかと思うことは容易いが、日本でも今同じことが起こっているのではないかと私は思うのだ。
私自身、芸術大学に通い周りには多くの美術家を目指す仲間がいた。
そしていざ社会へと足を踏み入れた時、その足の置き場のない日本の現状を目の当たりにするのである。
そうなるともちろん、ダ・ヴィンチにとってのフランスのような、それぞれにとっての優しい居場所を探すのである。500年前よりもより簡単に他の国へと移ってゆく芸術家たちが、私の周りだけでもたくさんいる。

現在は国の時代ではなく個人の時代である。
だからその人が一番輝ける形で世界で活躍していることが一番だと思う。
けれども、もし日本という国がもう少しだけ芸の術、美の術に理解があればと。
学ばせるだけではなく、利益のためだけではなく、活動するための正当なチャンスがあればと。
今私も他の国へ移りたいと考え始めたからこそ、慣れ親しんだ自分の国にも希望を求め、つい願ってしまうのだ。

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