ミノタウロスに想いを重ねる2021年

今更だが1月も終わってしまうので、今年の挨拶も込めて毎年作り続けている年賀状について書こうと思う。

干支の動物が登場することがただ一つだけ毎年のルールになっている。
もちろん西洋好きとしては、中国古来の干支の生き物たちであろうが、そこに込める想いは西洋の歴史に因んだものになるのだが。

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一見の通り、今年は2人のミノタウロスを主役に抜擢した。
実は今年の丑年は何年も前から楽しみにしており、牛の物語や言伝え、モチーフがゴロゴロと転がっている西洋だから題材も選び放題であった。
ただその中で、なぜ1番イメージの芳しくないミノタウロスを選んだのかと言えば、昨年から世の中を騒がせているコロナウイルスの影響が大きい。

 

まずミノタウロスの話だけ簡単にしようと思う。

ギリシャ神話の登場人物である彼は、牛の頭と人間の体を持つ凶暴な牛頭人間であるのだが、そんな運命になってしまったのには彼の父親のミノス王の欲が関係する。
神様に捧げるはずであった牛があまりにも美しすぎて、捧げるのが惜しくなったミノス王は代わりの牛を捧げることにした。もちろんそんなことは許されるはずもなく、神の怒りを買い、罰として、ミノス王の妻はその美しい牛に恋焦がれるようになってしまう。その末に生まれたのがミノタウロスであり、その凶暴さからクレタ島のラビリンスへと幽閉されてしまうのだ。

そのあとはお決まりのヒーロー伝説でミノタウロスを退治したテセウスが王の娘と結ばれるという話である。(諸説ある上に、かなり割愛しているので興味があれば調べてみて欲しい)


この話、英雄伝としては納得のストーリーであるが、元はと言えばミノタウロスは人間の欲望が生み出した怪物である。彼自身が悪いわけではなく、人間から見たら邪魔な悪であっただけで、ミノタウロスの視点になった時に悪者は一変して人間となる。
その姿がコロナウイルスと重なって見えたのが今回題材に選んだきっかけであった。
人間の欲から生み出されたにも関わらず、問答無用で悪者として世間に名を轟かせる者たち。

年賀状に描いたミノタウロスはアダムとイブに重ねる意味も込めている。
私たちが性を分け、働き、子を生むのは彼らが犯した罪に対する神からの罰である。
これは神からの罰という点では、ミノタウロスコロナウイルスとも別ではないにもかかわらず、私たちは今それを罰としてただ戦っているわけではない。
それぞれがファッションを楽しみ、子を持つことを喜びと捉え、働くことすら楽しむことができる。
罪が罪でなくなり、悪が悪でなくなる瞬間は、人それぞれに想像し、作り出すことができるのかもしれない。その希望の一例を彼らに託した。

日本は今いつまで続くのかわからない緊急事態宣言の中である。ただコロナウイルスを敵とし戦う考えで頭を一杯にするのではなく(特に医療に従事していない私にとっては)、この時間と状況が自分に何を与えるのか、悪と善の中間に立ち、思考する隙間を作ってみるのもいいのではないか。古代ギリシャの哲学者たちのように考えと向き合う時間にしてみるのはどうだろうか。
と、勝手な思いを込めて一年を始める挨拶とすることにした。

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 年賀状の上部にはギリシャ語で『すべての人は善人か悪人かではなく、正しいか正しくないかではなく、その中間である』と記した。アリストテレスが発した言葉である。
2000年以上も前から人間は変わっていないし、人としては退化しているのかもしれない。
良いか悪いかではない真ん中にあるものの重要さを写経をするかのように何度も綴りながら、自分自身にも刻み込んだ。

また、私の中でミノタウロスが憎めないものに変化したのはピカソの影響がある。
その経緯は過去に少し触れていたのでここにもう一度。

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