《教会を知る Vol,5》教会から飛び出す気になるもの

西洋を旅していると私たちは必ず教会に出会う。
そしてその外周を何気なく歩きながら高々と聳える姿を見上げたところ、取ってつけたような気になる物体を見つけるのである。
日本では到底出会うことのないその存在は気になってしようがない。ましてや初めて訪れたのならば尚更。
私なんかは見つける度についついカメラを向けてしまう。

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二匹の何かが教会から飛び出している

パリのノートルダムの怪物たちが有名なので、その名を知る人も多いと思うが、これらは『ガーゴイル』と呼ばれている。
ではこのガーゴイルはなんのためにこんな不思議な形をしているのだろうか。

形の答えは簡単で、雨樋である。これは知ってる人も多いだろう。
西洋では古代の頃からこの飛び出した形の雨樋または水を吐き出す彫像というのはよく用いられていた。しかしそれもロマネスクの時代になると一度消えてしまい、改めて現れたのが、ゴシック期の大聖堂が建てられるようになってからであった。

日本の建築ではいまいちピンとこないが、大聖堂の姿を想像してほしい。
あの高々と聳える鋭い傾斜の屋根をつたい雨が滑り落ちる。伝う水は勢いを増し、そして私たち人間に凶器のような鋭さとスピードで降り注いでくるのである。これはなんとしてでも避けたい。
また西洋の教会は石と石を漆喰で固めて作られた建物である。壁をつたいひたすらに染み込んでくる雨水は、雨の多い西洋ではその接着を溶かしてしまう大敵だったのである。

そんなことから一度消えたかと思われた飛び出した雨樋は高さを誇るゴシック建築とともに復活を遂げたのである。

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ヴェネチアにあるガーゴイル。まさに雨樋の形

さて、ではその装飾性には何か意味があるのだろうか。
それぞれの経験で出会った種類は違うと思うが、私が出会った中でもただの半円柱、動物たち、人間、怪物と様々であった。
教会の装飾に関してはその地域性も含むこともあり、未だ謎が多く様々な研究がある中で、実は絶対という正解はない。なので私の中で今しっくりときている装飾の持つ意味を記しておきたいと思う。

ガーゴイルのモチーフを分類すると、以下の三つに分けられる。

  1. 動物
  2. 人間
  3. 幻想動物 

またその中で1の動物でも、善い動物と邪悪な動物に分けることができる。
一番わかりやすいのはこの善い動物と邪悪な動物の違いを知ることである。

善い動物とはライオンまたは犬などを指すのだが、彼らは番犬のような教会を守るものとしての意味を持つ。なので、教会の見張りやお守り的なモチーフということになる。

一方、邪悪な動物とは豚やロバや猿などを指す。彼らは昔からキリスト教ではタブーとされている罪を表す。(人間と表される時には罪人、浮浪者、大食漢、酔っ払い、遊び人などを指す)
なのでその戒めとして警告の意味が一つ。また教会の中に渦巻くその悪行を、水を吐き出すその姿に重ねて吐き出す役割をしているのである。

この二つの違いも知って、ゴシック聖堂の建築家たちはモチーフを選ぶのだが、それもそのうちに意味性よりもより装飾性とアイデアのバランスが勝るようになり、悪いものを吐き出す人間の像(これは口からやお尻からなどと様々)や夜道で見たらゾッとするような幻想怪物が増え始めたのである。
ロマネスクを経て、最高の技術を身につけた建築家たちにとって、聖堂の装飾品は絶好の腕の見せ所となるのだから当然ではあるが、ある意味自由に遊べるアイデア合戦の場ともなったのだ。

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パリのノートルダム大聖堂ガーゴイル。よく見ると奇妙な怪物の姿をしている

また西洋に行ける時には、ふと空を見上げる事を思い出して欲しい。
どんなガーゴイルがそこにはいるのか、どんなつもりでそこにいるのか。
番犬のように使命感を持ったガーゴイルもいれば、自分のようにはなるなと警告するガーゴイルもいる。自分ですら全く意味のわかっていないものもいるのだろう。
ゴシック期の建築家の遊び心のつまったガーゴイルは、私たち日本人にとっても最も気軽に楽しめる教会のモチーフかもしれない。

この話にはまだまだ深堀できる続きがあるのだが、長くなるのでまた違う時にでも。

  

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今、旅ができないからこそ

恥ずかしながら今になって初めて、私は歴史小説の偉大さに気がついた。

小説は昔から好きである。特にミステリーなんかは読み始めたらどうやって止めたらいいかわからず、他のことが手につかなくなり、気がつけば読み終わるまでそれしかできなくなる時もあった。
ただここ最近は西洋のことを知りたい気持ちの方が強く、史実を読み、向き合うことの方が自分のためになるのではと思っていたのだ。

 

それが、違うのでは?と思うキッカケになったのが塩野七生さんの『ルネサンス』を手に取ってからである。

塩野さん自体がイタリアを中心とした史実を書く方なので、最近嵌りに嵌っているイタリアを知るには最高の参考書であった。難しいことは多く語らず、読みやすい文体が次々に次の本へと手を伸ばさせた。

その手の先に突如現れたのが『ルネサンス』であった。

ペラペラとめくり、小説か…と思いつつ、勉強と思わず気晴らしに読むか。と読み進めたのだが、途中から今までにない感覚にゾッとした。
まるで自分がそこにいて体験するかのように、そしてルネサンスの人々の友達であるかのように、映像的想像が止まらないのである。
明らかに今までの史実書とは違う、よりリアルなルネサンスが思い描けるようになったのだ。

この『ルネサンス』の物語の中では、主人公その人と発端となる事件は創造であり真実とは異なるのだが、それ以外のことは実際に存在した人々が登場し、実際にあった歴史が動いていく。
史実を得意とする塩野さんならではのリアルな情景表現も合わさり、その時代あったであろう風景はきっとそうであったのだろう姿で描き出されている。
(ここまで書くと何かの回者のようであるが…
本当にただただ私にとっては、新しい気づきであったので、許していただければ…)

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物語の始まりとなるヴェネチアの鐘楼の上から

また塩野さんのオンラインインタビュー記事もとても良かった。(文末にリンクを貼っておくので興味があれば是非!)
イタリアに旅行できない今、この本で旅行をしてほしい。そして来られるようになった時にはこの本を持ってイタリアに来て欲しい。と。
旅に出れず鬱々としていた気持ちがひっくり返るように、今をも楽しんでいる塩野さんの雰囲気はとても心地が良い。

もし今、旅行も行けないストレスを抱えていたり、イタリアへの憧れを抱いているのであれば、今この本を読むことを心からお勧めしたい。

絶対に素晴らしいイタリアルネサンスの景色が目の前に広がるはずだ。 


塩野七生オンラインインタビュー

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ミノタウロスに想いを重ねる2021年

今更だが1月も終わってしまうので、今年の挨拶も込めて毎年作り続けている年賀状について書こうと思う。

干支の動物が登場することがただ一つだけ毎年のルールになっている。
もちろん西洋好きとしては、中国古来の干支の生き物たちであろうが、そこに込める想いは西洋の歴史に因んだものになるのだが。

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一見の通り、今年は2人のミノタウロスを主役に抜擢した。
実は今年の丑年は何年も前から楽しみにしており、牛の物語や言伝え、モチーフがゴロゴロと転がっている西洋だから題材も選び放題であった。
ただその中で、なぜ1番イメージの芳しくないミノタウロスを選んだのかと言えば、昨年から世の中を騒がせているコロナウイルスの影響が大きい。

 

まずミノタウロスの話だけ簡単にしようと思う。

ギリシャ神話の登場人物である彼は、牛の頭と人間の体を持つ凶暴な牛頭人間であるのだが、そんな運命になってしまったのには彼の父親のミノス王の欲が関係する。
神様に捧げるはずであった牛があまりにも美しすぎて、捧げるのが惜しくなったミノス王は代わりの牛を捧げることにした。もちろんそんなことは許されるはずもなく、神の怒りを買い、罰として、ミノス王の妻はその美しい牛に恋焦がれるようになってしまう。その末に生まれたのがミノタウロスであり、その凶暴さからクレタ島のラビリンスへと幽閉されてしまうのだ。

そのあとはお決まりのヒーロー伝説でミノタウロスを退治したテセウスが王の娘と結ばれるという話である。(諸説ある上に、かなり割愛しているので興味があれば調べてみて欲しい)


この話、英雄伝としては納得のストーリーであるが、元はと言えばミノタウロスは人間の欲望が生み出した怪物である。彼自身が悪いわけではなく、人間から見たら邪魔な悪であっただけで、ミノタウロスの視点になった時に悪者は一変して人間となる。
その姿がコロナウイルスと重なって見えたのが今回題材に選んだきっかけであった。
人間の欲から生み出されたにも関わらず、問答無用で悪者として世間に名を轟かせる者たち。

年賀状に描いたミノタウロスはアダムとイブに重ねる意味も込めている。
私たちが性を分け、働き、子を生むのは彼らが犯した罪に対する神からの罰である。
これは神からの罰という点では、ミノタウロスコロナウイルスとも別ではないにもかかわらず、私たちは今それを罰としてただ戦っているわけではない。
それぞれがファッションを楽しみ、子を持つことを喜びと捉え、働くことすら楽しむことができる。
罪が罪でなくなり、悪が悪でなくなる瞬間は、人それぞれに想像し、作り出すことができるのかもしれない。その希望の一例を彼らに託した。

日本は今いつまで続くのかわからない緊急事態宣言の中である。ただコロナウイルスを敵とし戦う考えで頭を一杯にするのではなく(特に医療に従事していない私にとっては)、この時間と状況が自分に何を与えるのか、悪と善の中間に立ち、思考する隙間を作ってみるのもいいのではないか。古代ギリシャの哲学者たちのように考えと向き合う時間にしてみるのはどうだろうか。
と、勝手な思いを込めて一年を始める挨拶とすることにした。

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 年賀状の上部にはギリシャ語で『すべての人は善人か悪人かではなく、正しいか正しくないかではなく、その中間である』と記した。アリストテレスが発した言葉である。
2000年以上も前から人間は変わっていないし、人としては退化しているのかもしれない。
良いか悪いかではない真ん中にあるものの重要さを写経をするかのように何度も綴りながら、自分自身にも刻み込んだ。

また、私の中でミノタウロスが憎めないものに変化したのはピカソの影響がある。
その経緯は過去に少し触れていたのでここにもう一度。

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『モナリザ』がルーヴル美術館にある理由

前回せっかく重い腰を上げレオナルド・ダ・ヴィンチに触れたので、もう一つ、彼を通して書いてみたいことがある。

世界でも一番と言ってもいい有名絵画の『モナリザ』。
イタリアで生まれ、イタリアで育ち、フィレンツェ、ミラノ、ローマで活動したダ・ヴィンチのこの最後の傑作が、なぜ今フランス、ルーヴル美術館の所有で、そこに堂々と飾られているのかを知っているだろうか。
こういった場合、戦争での戦利品として持ち去られたというケースが多く、以前書いた「サンタ・ルチア」のミイラもそうだし、ローマのオベリスクもそうである。

ただ『モナリザ』の場合は違う。ダ・ヴィンチ自らがフランスに手渡したものなのだ。

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ダ・ヴィンチが生きた時代はまさにルネサンスの最盛期。豪華王とも呼ばれるメディチ家のロレンツォがこの時代を握っていた。今フィレンツェに豪華な美術品がひしめき合うのも、美へのこだわりを持ち、芸術にかけるお金を渋らなかった彼のおかげと言ってもいいだろう。
しかし何故かダ・ヴィンチは彼には気に入られなかった。
描く技術と魅力ではきっとフィレンツェで抜きに出ていたであろう芸術家をロレンツォは自国で大切に育てるでもなく、ミラノの公爵に紹介したのである。それはダ・ヴィンチフィレンツェだけに収まらなくなったきっかけともなる。

そのあとはそのミラノで16年を過ごし、パトロンの失脚や死去によりイタリア中を点々と渡り歩くこととなる。まさにこの時代に翻弄されるような人生である。
そして転機は1516年。ダ・ヴィンチの才能に惚れ込み尊敬と好意を寄せたフランス王フランソワ一世がその時代に翻弄されていたダ・ヴィンチに声をかけたのであった。

フランソワ一世はダ・ヴィンチにまず城を提供する。そして十分すぎる年金を与え、彼に自由を与えた。何を注文するでもなく、ただこのフランスにいてくれるだけでいいと言って。
今までわがままな注文に振り回され、やりたいことにも集中できないそんな人生を過ごしてきたダ・ヴィンチには最高の待遇であったのだろう。
500年後の今から見れば、その才能を最も近くで感じてきたイタリアがなぜ引き留めなかったんだと簡単に思うこともできるが、芸術家の溢れる変革の時代、芸術を求めるものも本当の美しさが見えていたわけではなく、私欲が優っていたのかもしれない。

フランスでの幸せな時間は3年間だったが、その幸せの中にダ・ヴィンチは永眠することとなる。(彼の亡骸もフランスのサン=フロランタン教会に埋葬されたのだが、こちらはフランス革命の戦火の中で行方知れずとなり、その後発見されるも未だ本物か調査中)
そして遺言にて彼がどこに行くにも持ち歩き、最後の最後まで描き続けたという、彼の最高傑作『モナリザ』をこのフランス王に遺贈すると遺したのである。
彼の人生を大切に思ってくれたフランソワ一世だからこそ、最も大切にしていたものを預ける決意に至ったのかもしれない

ということで、堂々たる理由を持って『モナリザ』は今、ルーヴル美術館の主役としてその存在感を見せつけているのである。

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この話は、実は今の日本においては他人事ではない問題だと私は感じている。
ダ・ヴィンチの話を見れば、なんでイタリアはあんな天才を最後まで大切にしなっかたのかと思うことは容易いが、日本でも今同じことが起こっているのではないかと私は思うのだ。
私自身、芸術大学に通い周りには多くの美術家を目指す仲間がいた。
そしていざ社会へと足を踏み入れた時、その足の置き場のない日本の現状を目の当たりにするのである。
そうなるともちろん、ダ・ヴィンチにとってのフランスのような、それぞれにとっての優しい居場所を探すのである。500年前よりもより簡単に他の国へと移ってゆく芸術家たちが、私の周りだけでもたくさんいる。

現在は国の時代ではなく個人の時代である。
だからその人が一番輝ける形で世界で活躍していることが一番だと思う。
けれども、もし日本という国がもう少しだけ芸の術、美の術に理解があればと。
学ばせるだけではなく、利益のためだけではなく、活動するための正当なチャンスがあればと。
今私も他の国へ移りたいと考え始めたからこそ、慣れ親しんだ自分の国にも希望を求め、つい願ってしまうのだ。

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私の苦手な芸術家、レオルド・ダ・ヴィンチ

大学生の頃一番面白いと楽しみにしていた授業が布施英利先生の『解剖学』だった。
そして最近布施先生の新書が出るということで、早速本屋さんで手に入れたのが『ダ・ヴィンチ、501年目の旅』である。

正直な話、私はレオルド・ダ・ヴィンチがあまり得意ではない。
世の中では散々彼について多くの書籍が出ている中、西洋美術も本も大好きな私が気がつくと避けていた芸術家である。
それがなぜか、この何ヶ月かで彼が私の周りでチラチラと顔を覗かせているのである。
まさかここの場でレオルド・ダ・ヴィンチについて書こうなんて、考えてもみなかったことなのだが、今がそのタイミングかと思い、一度今の想いを記すことにした。


まずなぜ私がレオルド・ダ・ヴィンチを避けていたか。
無意識が半分、また自身で気がついている点も半分ある。

一つはあまりに凄すぎるからである。
美術に興味がなくても誰でも知っている存在であり、芸術家としても研究者としても、軍事的な面でも、天才と言われる人物。私が少し彼について学んだからといって果たして理解ができるのか。できるとは到底思えず知ることすら遠ざけていた。

もう一つは絵画との向き合い方である。
彼の絵は計算の上で成り立つものが多い。黄金比へのこだわりや遠近法の扱いは、まずそれを叩き込んでからではないとレオルド・ダ・ヴィンチの作品と向き合ってはいけないのでは、というに気になってしまうし、人体についてもそうだ。構造を理解し熟知した上で向き合わなければ、彼の絵はなんの謎も私には解かしてくれないだろう。

なんとも子供じみた理由で恥ずかしいが、そんな想いも含め、無意識にも知ることを避けて生きてきてしまった。


ただ思い起こせば私は彼の作品をよく見ている(見に行こうとしている)ことにも気がつく。
モナリザ』も2作の『岩窟の聖母』も『最後の晩餐』も『スフォルツァ城の天井画』も。
そして今年予定していたフィレンツェでは『受胎告知』や『東方三博士の礼拝』、『キリストの洗礼』(これは部分だが)、そして今はなき『アンギアーリの戦い』の雰囲気すらも見にいく予定でいた。
気がつけば、最近、二回目の『ダ・ヴィンチ・コード』すら観てしまった。

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夏休みにしては空いていた『モナリザ

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『最後の晩餐』は唯一これを見るために向かった

ただこれには理由もある。私は「ミケランジェロ」にとても興味があるということだ。
実はどの場所も(『最後の晩餐』以外は)ミケランジェロを見るために向かった場所である。
同じ時代を生き、ルネサンスを築き上げた「三代巨匠」のうちの二人。(もう一人はラファエロ
ミケランジェロを知ろうと読む書籍には大抵、対になるようにダ・ヴィンチが現れるのだ。
最近読んだ一冊では「序章」から「ミケランジェロとレオナルド」の見出しが入り、その比較は永遠に続いていく。

そして極めつけるように新しい書籍を布施先生が出したことで、私が避けていたダ・ヴィンチと向き合う機会が今生まれてしまったのだが。ただ、布施先生の文章を読んでいると実はそこまで気負わなくてもいいのではという気持ちにもさせてくれる。まるで学生の時に戻ったようで、授業を受けているような言葉や筋立ての感覚は、めずらしく心地よいダ・ヴィンチ体験であった。

でも、それでも。多分これからも私のダ・ヴィンチへの劣等感や親近感のわかない気持ちは、そう簡単に消えていくことはいと思う。同じ人間とは思えないようなこの天才が、やはり怖くてたまらないし、知れば知るほど絵の前に立った時の見透かされたような感覚も増すような気がする。
その一方でいつまでも彼を無視しているわけにもいかないこともよく分かっている。
彼を通らなければ、ミケランジェロにも手は届かないし、本当のイタリアにも出会えない。
せめてフィレンツェに行く前に。(悲しいことに時間はたくさんできたから)
今はミケランジェロの陰からチラチラと顔を覗かせる彼と、正面から対峙する機会を作らなければいけない。

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旅をめぐるように話が進むので、なかなか旅に出れない今、おすすめの一冊。


 

《地図の旅:ROMA》オベリスク編 -Vol,2 始まりのオベリスク-

誰がローマに持ってき始めたのか。
誰がローマに建て始めたのか。
の、答えに一番ふさわしいのではと思うオベリスクがある。

それがポポロ門にある「①フラミニオ・オベリスク」である。

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地図上部に位置し、ローマの入口とも言われる門のある場所

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(Jens JungeによるPixabayからの画像)

実際のところ、ローマにある13のオベリスクは、持ってきた人と建てた人は大体がバラバラである。
ただ最も重要な、ローマに運ぶことを始めた人、今の再生されたローマに建てることを決めた人のどちらをも備えているのが、この「フラミニオ・オベリスク」なのだ。

では、それぞれの人物を紹介しよう。

 

まず持ってきた人。が古代ローマ帝国の最初の皇帝「皇帝アウグストゥスである。
ローマ帝国を作り上げ、西洋をローマのものとした彼が最初に持ってきたということは、自ずと「なぜローマに持ってきたのか」の答えは見えてくる。
そう、戦利品である。古代最大であったエジプトの大切なものをローマが奪うことで、自らの力の偉大さを見せつけたのだ。


そして建てた人。が「シクストゥス5世」である。
ローマ帝国が滅亡してから1200年ほど後。ローマ再生の肝となる、底辺からのし上がり教皇となった人物。
例えばパリの街を美しく整備し直したジョルジュ・オスマンのように、シクストゥス5世もローマの街を整備する基盤を作った人物といってもいいだろう。(在位が5年と短いため全ては叶えられなかったが)
その彼が目をつけたのがオベリスクであった。

ローマを再建するにあたり、地中からは古代ローマの遺跡が次々に発掘される。そしてその中にはエジプトから持ち帰った「オベリスク」も含まれていた。
そこでこの巨大な一枚岩を(発掘された時にはほとんどのものは折れてしまっているが)どうするのか考える。
1500年代。ローマといえば有数の巡礼地であった。
キリスト教徒たちのためその目印として、ローマを歩く道しるべとして、オベリスクたちを建てたのだ。
天に突き抜けるようなオベリスクを目指し、たどって歩けば巡礼が叶う。
グーグルマップのない時代に道に迷わないためのナイスアイデアである。

また太陽神のシンボルをキリスト教のシンボルへと変えることで、キリスト教が信仰の頂点であることも物語っている。
現に太陽神が宿るオベリスクの頂点に彼は十字架をつけた。


ここで、持ってきた時代と建てた時代に大きな開きがあるのは、ローマ帝国が一度滅びたからである。なので初めて建てたということでは、実はそれもアウグストゥスでもある。古代ローマ帝国に持ち帰り建てたとされる。
しかし、戦火の中に倒れ一度は地中に埋もれてしまった。
だから今私たちの目の前に聳えるオベルスクは、シクストゥス5世による設置の考え方がベースになっている、という意味で建て始めたとした。

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今回の地図には

アウグストゥスが運んだもの
シクストゥス5世が建てたもの

の目印をつけて見た。
※その他はグレーとする

彼ら二人によって、今ローマでオベリスクは存在できる。
もし皇帝シクストゥス5世が歴史に不勉強であれば、オベリスクの存在に目をやることはなかったかもしれない。アウグストゥスが運んだことも、それが何であったかも彼はよく知っていたから。

歴史を、過去を、知ることは未来を作る。
過去のものたちがどう生き残るのか、それは現在にかかっている。
ものとして、話として、記録として、記憶として。

フラミニオ・オベリスクはそのことよく教えてくれる。

 

 

《地図の旅:ROMA》オベリスク編 -Vol,1 オベリスクとはなんなのか-

当分の間旅に出ることは難しいだろう。
少し前まではお金がスケージュールがと悩んでいたが、そんな悩みは贅沢すぎたのだ。
コロナウィルスが世界中で流行する今、努力したところでどうやっても旅には出ることができない。

そこで、今できることを。
将来訪れる目的地の予習を含め、様々なフィルターで地図を作り、そこからその地を学ぶプロジェクト《地図の旅》を始めたいと思う。

どんな記事にしたいか説明を続けるより、書いてみるほうがきっと早い。
まずは本当であればこの3月に巡るはずであり、終息後一番に向かおうと思っているローマから始めることにする。
ではここから、地図の旅に出よう。

✈︎ ✈︎ ✈︎ ✈︎ ✈︎ ✈︎ ✈︎ ✈︎ ✈︎

オベリスク」を知っているだろうか。
この細長い石の柱のことなのだが。

私は今までこのオベリスクというものをあまり気にしたことがなかった。
言われてみればパリにもあったし、ロンドンの大英博物館でも出会っているはずなのに写真が一枚も見つからないのだから相当気にとまっていない。今となっては過去の自分を恨みたいとこだが、勉強不足だったのだから諦めるしかない。

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パンテオン前のオベリスク(現地で撮影できていないためWaldo MiguezによるPixabayからの画像 )

ローマの街には現在この「オベリスク」という石碑が13本設置されている。バチカン含)
他の街よりもはるかに多く、それが街の中(博物館や美術館ではなく)にあるということを見れば、それはローマという街の大きな特徴といっても良いだろう。


オベリスクというのは本来、古代エジプト人が太陽神に捧げるために作ったモニュメントであり、一枚岩から切り出したそれは、主に神殿や宮殿で対になって建てられていた。いわばピラミッドの簡略版みたいなものであった。

だがその本来のあるべき場所や意味とどう結びつくのか、現在は13本もの「オベリスク」たちがローマに建てられている。それは何故なのか。
それを知るためにローマの街を俯瞰で眺めながらその理由を探りたいと思う。

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最初にオベリスクの位置や名前と一緒に知っておくといいことが一つある。
それがこの地図に色の違いで表した、本物か偽物かである。
そうなのだ。ローマにはまさかの偽物のオベリスクが存在するのだ。
オベリスクに刻まれた碑文が古代エジプト文字のヒエログリフで書かれているからと言って騙されてはいけない。

がエジプトで作られた本物(オリジナル)
がローマで作られた偽物(模造品)
※半々のものは上部が本物、下部が偽物

地図で見ると、人気の観光地であるスペイン広場やナヴォナ広場のものが模造品であるのは意外である。
間違えてもスペイン広場ではしゃぐ大勢の観光客の目の前で、「あれはエジプトから持ってきたオベリスクというものだよ」とは自慢げに説明してはいけないのだ。

ただ模造品だからといって歴史がないわけでも、鑑賞する価値がないというわけでもない。
それぞれの時代にちゃんとした必要性を持って作られ建てられたのだからローマを知るためには大事な鍵ともなる。

では本物も偽物も含め、それらはなんのために、そしてどうやって今の場所に建つようになったのか。
それを知るためにも、一つずつつらつらと書いていきたいところだが、長くなりそうな上にまとめきれなそうなので、次回からゆっくり地図も使いながら深掘りしていこうと思う。

それぞれのオベリスクにそれぞれあるストーリーはなかなか個性的で面白い。
経緯を知ることできっと誰もがそれぞれにお気に入りのオベリスクに出会える。

そんな予感に期待して。また次回。