展覧会『マルク・シャガール — 夢を綴る』-美術館の普通を見る-

とても良い展覧会を観た。
と言いながら11月4日までで終了間近なのだから、オススメする者としては最悪であるが。。。

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日本の美術館でも扱うところの多いシャガールの絵画や版画や印刷物。
今回観たのは、銀座のポーラミュージアムアネックスで行われている、ポーラ銀座ビルの10周年をお祝いする記念展覧会『マルク・シャガール — 夢を綴る』。POLA自慢のコレクションで魅せる展覧会である。

何が良かったのかというと、シャガールのこの作品は見るべきであるとかそういうことではなく、無料なことである。
ただケチでお金を払わないことがいいと言っているわけではない。
感覚として美術館の普通を体験したと私は思ったのだ。

海外では美術館やギャラリーのコレクションは自由に見られることが多い。
市や個人が無料で開放し誰でもが日常の中で美に触れる機会がある。
ただ日本の場合コレクションは有料である。
または企画展にお金を払い、そのついでにコレクション観覧チケットが付いてくることもある。
私はこの日本の当たり前が好きではないのだ。
コレクションはおまけのようでもあり、あまり興味を持たれない。

『マルク・シャガール — 夢を綴る』ではその日本で美術を観る概念を壊された気がした。
正直入るまではここは場所も小さいし、無料の展示でとあまり期待はしていなかった。
が、入ってみればそこは小さな美術館になっていた。
挨拶文もリーフレットも目録も、美術館で体験できることがミニマムな空間に詰め込まれているのだ。それに数点ながらも時代の違う油画の実物、1つの物語としてのリトグラフの展示、日本でよく見られる『関連作品』という逃げがないのもいい。
仕事の帰りにさっと寄れる、規模と時間。
ヨーロッパでシャガール作品を見ているような不思議な感覚に陥った。

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流石に写真は撮れなかったので、パリのポンピドゥーセンターのコレクションを

もし美術が遠いいと思っている人がいるのなら、ぜひ訪れてみて欲しい。
会期があと少しなのが本当に勿体無いが、何より美術館と気負わず銀座を散歩するついでにふらっと寄れる。
絵画の見方なんて関係はない。
エレベーターで上がり、扉が開けばそこはパリのように、優しいシャガールが待っている。

www.po-holdings.co.jp



「ル・コルビュジエ 絵画から建築へ―ピュリスムの時代」

以前書いたコルビジェ について、また2月に始まる展覧会の時にまた書きたい。と締めていたので、改めて書いてみたいと思う。

現在上野にある西洋美術館で行われている「ル・コルビュジエ 絵画から建築へ―ピュリスムの時代」
表題の通りピュリスムを軸に構成された、絵画寄りの展覧会である。
と思ったのはタイトルを聞き、リーフレットを読んでいた時だけで、これはまさに建築と空間を見る展覧会だと思った。

正直なところ私はピュリスムキュビズムも、あの20世紀初めのフランスの芸術運動はあまり好みではない。
中には足を止めるものもあるが、それはただ色彩や構成の好みにフィットしているだけで、絵画として美しく興味深いとはあまり思わない。
(絵を描くことの新しい意味を見出したことはもちろん歴史的に重要なことであるが)
個人的にはコルビジェは、絵画から建築そして絵画へ戻る時の力の抜けた自由な瞬間が好きである。
ピカソマティスの影響もあるにしろ、戦後の作品や裸になって自由に描く壁画は考察と自由のバランスがとてもいい。
せっかく彼の絵が見られるのであればその時代のものがいい。
コルビジェになる前、ジャンヌレだった頃のピュリスム時代を観せる展示か。。と残念に思ったのが入館前の感想である。

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だから最初に展示空間に入った瞬間に驚いた。
展示はコルビジェが設計した19世紀ホールから始まるのだが、そこにはまずピュリスム絵画は全くない。
ただその空間を見ることから始まる。
模型などの展示はあるので私がそう感じただけかもしれないが、周りを見れば誰もがその空間だけに夢中になっていた。

その後はもちろん歴史を辿るように彼がまだジャンヌレだった時代からの説明と絵画が続いていくのだが、それはおまけのような気がした。
コルビジェのつくったこの西洋美術館という空間を観る。私にはそれ以外はなかった。
ただその際に展示されているピュリスムの考えやその根本を元に空間を観ると、コルビジェのその時その時の視野を通して眺めるようで、これが意外と面白い。

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この柱を中心に螺旋を描く

またコルビジェの計画した西洋美術館の構造もうまく作用している。
19世紀ホールから始まる展示室は、時計回りに螺旋を描くように進んでいく。
(これは『無限成長』をする美術館をテーマとしたコルビジェのアイデアだが、増築のごとに外周を増やしていくというところまでは実現しなかった)
今回の展示では一応終わりはあるものの、気がつけばぐるぐると何周もできるような構成になっている。
これもコルビジェの思考の歴史を行ったり来たりするようで、空間の見方を変えてみる手助けになる。

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彼の作ったこの西洋美術館という場所で、彼の展示を観る機会というのはなかなかに贅沢なことである。
それは学ぶ展示というよりも、考え実感する体験的な展示であり、今この場でしか出会うことはできない。
もちろん巡回展なんかをしても全く意味のない展示である。

展示自体は思った以上に混雑していなかったから、ピュリスムというのは日本ではあまり人気はないのかもしれない。(私む含め。。)
または建築というと少し気難しいことのように聞こえる気もする。
ただ今回の展示に関しては何も考えずにとりあえず観に行ってみて欲しい。
こんなにも魅力的で綺麗な空間が日本にあることに感動する。それだけでもいい気がする。
コルビジェが長い間作りたいと思っていた『美術館』という空間は世界で3つしか実現しなかった。
その1つがここ、西洋美術館であり、私たちはいつでも気軽に訪れることができる。
単純な感想ではあるが、その単純なことを思い出させる私にとっては大切な展示になった。

展示は5月19日まで。
lecorbusier2019.jpwww.cojitrip.com

アトリエ・ブランクーシという作品

ブランクーシを初めて気に留めて観たのは大学に入ってすぐの時だった。
大学内にある美術館の舞台裏、所蔵作品の中であまりににもシンプルな金色のつるんとした塊が光り輝いていた。なんでもないのに異様な存在感を放つこれはなんだろうとその時は心に引っかかってはいたが、特に深く心に留めることもなく学生生活は過ぎていった。
それから6年後パリを訪れた時、あの鮮やかで現代的なポンピドゥセンターの広場の端っこに、ぽつんと静かに佇む平屋の中でまたあのブランクーシと出会った。
これが私にとってブランクーシと正面から対峙し始めるきっかけとなった。

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そこはブランクーシのこだわりの空間、アトリエををそのまま動かしてきたギャラリーである。
自身のアトリエをフランスに寄贈すると決めた時、ブランクーシとフランス政府との間で交わされた『アトリエをそのままに再現する』という約束の通り、当時のアトリエの配置も拘りもそのままに今も見ることができる。

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彼の様にシンプルすぎる形態も、今であればそこに勝手に意味を見つけたり、タイトルひとつで何かを物語ったり、コンセプトと言われるような文章があれば人は夢中で美術鑑賞に入り込む。
ただブランクーシの若かった頃にはそれも難しい問題だった。
アメリカではこれは芸術作品として認められるのかという裁判まで起きている。
彼が作り出した芸術は一見あっけらかんと悩みのないすっきりとしたものに見えるが、当時の『美術』という考え方を変えるほどに人々がざわつく出来事だったのだ。

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そんな苦労もさっぱり見て取れないくらいに、このギャラリーはただただシンプルに美しい形の連続とその配置の絶妙なバランス感覚によって、心穏やかな空気を流し続ける。
彫像を飾る台座も作品とし、上と下の重要性を均等にした彼らしく、アトリエの空間すらも作品との上下関係を持たせなかった。
立体と空間の調和こそが彼の作品なのである。
美術館で見かける凛と佇む彫刻も間違いなくブランクーシだが、『調和』を重んじるこの空間は彼の最高傑作だと私は思う。
周りをも巻き込むような緊張感、計算し尽くされた関係性、物体の周りにこそ彼独特の拘りがみえてくる。
こんなにも贅沢な作品展示はないと思うのだが、入場料金が無料というのもすごい。

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ここでは、気持ちのいいパリの陽光の中で思い思いに佇む立体を眺めながら、止まったような時間を過ごす人々が多い。
中にはベンチに座ったままうたた寝をしている姿もある。
めまぐるしく活気付くパリの中心部でここだけはブランクーシがいたその日のままで、人々を出迎える。
少し手を休めて出かけたブランクーシの帰りを、そこに残る制作途中の道具たちと一緒に静かに待ち続けているような様子である。

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屋根では大勢の鳩が日向ぼっこをしている

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Atelier Brancusi
Place Georges Pompidou, 75004 Paris, フランス
開館時間:14:00-18:00  火曜休館
入場無料



「駒井哲郎―煌めく紙上の宇宙」

日本での銅版画の位置付けは決して高いとは言えない。
作品としての値段で言えば、複製が可能な版画はもちろん世界中で低くはなるが、日本でのその歴史は比べ物にならないほど近年に入ってから確立されてきた。
と言いつつも、その後すぐにプリンティングの技術が発展し、版画とは絵画よりも安く印刷よりも高い微妙な位置付けになってしまった気もする。
今でも大学教育の中で『版画』というのは他の中に付属されることが多く、それ単体としての力はあまり強くない。
私が大学に勤めていた何年か前にも版画の工房は縮小され、銅版もリトグラフも姿を消していった。なかなか抗えなかったのを悔しく覚えている。

そんな日本の版画の世界にも見るべき作家は多くいる。
その一人が1900年代に活躍した駒井哲郎であり、現在横浜美術館でその作品多くを観ることができる。

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彼は銅版画の先駆者とも言われるだけあり、とにかく表現も知識の幅も広い。
それは研究者のようでもあり、到底一人の作家だけのものではないように感じた。
彼が56歳で亡くなっているとはつくづく思えない。 

特に晩年に行くほど技は熟練し、それを持って最高のものを更新し続けている印象であった。
こんなにも若く亡くなっていなかったら、一体どこまで上り詰めていたのだろう。

またこの展示は、彼に影響を与えた作家の作品も同じ空間で並ぶことも
見どころの1つである。
中でも私の気持ちを盛り上げたのはデューラーとクレーであった。
銅版画といえばこの2人無くしては始まらないほどのキーパーソンである。
(展示のサブタイトルにあるルドンもそうなのだが、今回は置いといて。。)

デューラーは銅版画表現の自他共に認める天才であった。
彼自身、自信家な性格も相まってその印象はより強いものとなって今に残るのだが、細密な線での描写力は今の時代にあっても飛び抜けていると思う。
版画以外でも彼の才能は開花しているが、版画の魅せる描いた痕跡から解くように見えてくる制作の技には何度でも釘付けになる。

それとは反対に版画では鳴かず飛ばずだったのがクレーである。
現在の日本での知名度であれば反対のようにも感じるが、クレーの名が知れるようになったのは色彩を知ってからである。
ただ売れなかった時代の版画作品はクレーの本質でもある。
人とは違ったそのセンスも、時代を感じさせない劣化のない感覚も足を止めざるを得ない光り輝く魅力がある。

駒井とこの二人には版画以外にも共通点がある。
クレーはチュニジアを旅し色彩と出会い、デューラーはイタリアを旅しその影響を生かし続けた。
そして駒井はフランスを旅して版画世界の大きな壁を見た。
それを乗り越え、より多くを吸収する力を持って、今日本に彼の作品がある。
それぞれ全く違う人生を生きただろうが、彼らは間違いなく旅したことで作品も人生も変わった。
旅は時として本当に大きな魔力になる。

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版画の展覧会は絵画や工芸品ほど人気の出るものでもない。
だからゆっくりと贅沢な鑑賞ができることは大変嬉しいのだが、今回はそれを諦めてでも多くの人に見てほしいものだと感じた。
複製品のため絵画とは違い値段も安い。
有名作家や過去の偉大な作家のものですら買えない値段ではないこともある。
昔祖父がヨーロッパでゴヤの銅版画を購入してきたことがあるが、ヨーロッパの古書店を覗けば宝探しのように見つけることもある。
最近はマティスリトグラフをお土産に頂いたが、ヨーロッパでは日本で感じるよりももっと身近に、生活に溶け込みやすい作品として版画を楽しんでいる。
私たちの暮らしと美術がもっと無理なく近づくために、版画は良いきっかけ作りをしてくれる。
yokohama.art.museum 

偶然のお土産

旅の最中にある必然の出会いの中に、ふと、偶然の出会いが紛れ込むことがある。
今年の春に起こったそれは、ヒエロニムス・ボスの祭壇画との対面であった。

ヴェネツィアのアカデミア美術館。
そこにあったのが『聖女の殉教』という三連祭壇画である。

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『聖女の殉教』ボスが貼り付けの女性を描くのは珍しい

本来はオランダのシント・ヤンス聖堂の祭壇にあったのではと云われており、その後ヴェネツィアの貴族であるグリマーニ邸に飾られていたらしい。
なぜヴェネツィアに渡ったのかは謎であるが、その後もドゥカーレ宮で祭壇画として飾られていた。
それからはウィーンへと移動することとなり、なぜかまたヴェネツィアに戻ってきたのだが、火災の損傷もありその後はなかなか見られることがなかったものである。
修復後グリマーニ美術館が所蔵し、公開しているとは聞いていたが、ここで急に現れるとはまさに思ってもいない出会いだった。
修復を終えた記念に巡回展がささやかに開催されていたらしい。

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彼の場合は人生そのものが謎に包まれており、これだけの知名度がありながら作品数もダントツに少ない。25点の油彩画と8点のデッサンだけが現在認められているが、それだけだ。
それもボスに出会えた驚きの理由の一つである。

ボスは画家の一族に生まれ、画家になるべくしてなった。(一族の描いた絵画作品は一つも残っていなのだが)
裕福な女性と結婚したこともあり、お金には困らずただただ好きな絵を描き続けたと云われている。
絵だけを見れば変わり者のようだが、敬虔なキリスト教信者でありモラリストでもあった。絵の細部にキリスト教にまつわる事物が散りばめられていることは、それをよく物語っている。
彼のことは他人の記録か公の記録しか探る方法がないので、議論の範囲での情報が多い。ボスがどんな人生を生きていたかは年代も含めわからないことだらけである。
そのため描いた内容にしても解明されず、未だ多くの議論が渦巻き続けている謎の人物の代表格である。
ただそれは今になっても尽きない話題として人々が思考を巡らすのだから、今後もこの画家は忘れられ古びることはないのであろう。

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アカデミア美術館 中庭

旅に出る時、観たい絵画、彫刻、教会と調べてそこに向かうことは多い。
なのでそれらは決められた出会いであり、必然として目の前に現れる。
それは長く待ち望んだ瞬間で、対面するまでの学びや想像の答え合わせをする大切な時間である。
ただ稀に、このボスのような突然の予期せぬ出会いはその旅に思わぬ楽しみを与える。
その瞬間の驚きもいいものだが、日本に帰ってきてからの調べ考える時間は最高のお土産である。
特にこんなにも謎めいたことだらけの彼であればなおさら、いつまででも楽しめる。

この出会いに感謝しながらも、また次に起こるであろうその偶然がもうすでに待ち遠しい。
ただそれはきっと忘れた頃にやってくる。
なので心の隅に期待を隠しておかなくてはならない。

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アカデミア美術館 Galleria dell'Accademia di Firenze
開館時間|8:15-18:50
休館日|月曜


goo.gl

www.galleriaaccademiafirenze.beniculturali.it

 

「アルヴァ・アアルト――もうひとつの自然」

アルヴァ・アアルトーー もうひとつの自然』が現在、神奈川県立近代美術館葉山で行われている。

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アルヴァ・アアルトフィンランド出身の建築家であり、家具ブランド『アルテック』の設立者でもある。
日本ではその椅子やシェルフ、花瓶などでよく知られているのではないかと思う。

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時代はコルビジェと同じく(10歳ほど年下ではあるが)1900年代前半から後半にかけて。
近代主義建築に北欧らしい新しい風を吹き込んだ人である。
私は建築家ではないので彼の技術的なところを読み解くことはできないが、個人的に感じたことを少し書こうと思う。

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私は彼の実際の建築を見たことがない。
それが今回展示を見るにあたり大きなネックになった気がした。
彼のいいところはタイトルにもあるように、北欧ならではの『自然』への敬意である。
寒空と生い茂る木々、雪の作る白い世界とひんやりとした空気、張り詰める静けさと誰もいないポツンと感。
それぞれの景色の中で調和がとれた建築物を存在させるアアルト。
そんな印象からただただその場に立って見たいという気持ちだけが増していった。
特に展示に付随する、現代写真家アルミン・リンケの写真も手伝ったと思う。
この建築物たちはその場に行かなければ何も理解できないというのが一番の感想だった。
展覧会を見ているとたまに同じような感想を抱くことがある。
ヴェネツィアの絵画なんかは特にそうである。何も変わらない街でそれを見るからこそその歴史の重さにハッとさせられるのだから。

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アアルトの良さには素材に熱心なこともある。
これもやはり『自然』との結びつきは強く、自然から学びよく研究を重ねている。
今回の展示でその側面を見られたことはとても興味深かった。
フィンランドは寒い国である。
そのせいか彼の建築は建物の内側に暖かい形をよく見かける。
特に木の生み出す曲線はいろいろな技術を持って建物から家具まで随所に見られるのが面白い。
タイルや銅、レンガなどパーツからなる素材の扱い方もグラフィカルな楽しさとモダンさがさりげないセンスをキラリと光らせている。

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椅子に使われる曲げ木も自然を生かした綺麗な技術である

葉山美術館は逗子駅からバスで20分ほど。
それこそ海に囲まれた自然の中に建っていて、美術館を出て少し歩けば日本らしい海が広がる。
アアルトの創った北欧の景色に出会うその時を想像しながら、日本のこの海の景色に感動する。
遠いようで、真逆なようだけれども、意外にも何かが似ていた。

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アルヴァ・アアルト――もうひとつの自然」
2018年9月15日(土曜)~11月25日(日曜)www.moma.pref.kanagawa.jp展覧会図録

アルヴァ・アアルト:もうひとつの自然

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神奈川県立近代美術館葉山
〒240-0111 神奈川県三浦郡葉山町一色2208−1
開館時間|9:30-17:00
休館日|月曜
goo.gl

変わらないことへの憧れ

戦後初めてヨロッパ取材を実現した写真家、木村伊兵衛の写真展『パリ残像』になんとか駆け込みで行くことができた。

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1954年から55年に撮られたそのパリは、まるでこの間のように今も見られる姿と変わらず映る。
強いて言えば、ライカとカラーフィルムが作り出したテクスチャーと走る車と流行が時代を思わせるくらいで、引いて眺める街の風景はそのままである気がする。

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木村伊兵衛の写真にもエッフェル塔はよく映り込む

それは日本との大きな違いの1つだと思う。
一見では変わらぬ姿を続けるパリと大枠の姿を大きく変化させ続ける日本。
そこから細部に目をやれば、もちろんどちらも同じように急激な変化が見えてくるのだが、パリの街の形はその変化とは比例しない。
私は日本に育ったので、街が変わることに、そして壊しては新しくなることにきっと慣れすぎている。
日本ではしかたのないことでもあるし、それが急激な成長を可能にしたのだから悪いことだけでもない。

ただ何年も変わらず、何年も前の時代を生きていた人々と同じ景色にいられることには憧れも強くある。
当時描いたその絵も、綴った物語も、誰かの日記の1ページだって、その風景を重ねて眺めることを可能にするのだから。過去がリアルなものとしてすんなり馴染む。

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その最たる場所にヴェネツィアを思い出す。
そこは美術館に飾られる何百年も前のアカデミックな絵画と変わりがない。
写真の時代をも遡り絵の具で記録された街の景色は、その一瞬と同じ場所に立っていることに、時空が歪んだような戸惑いさえ感じた。
 

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ギャラリーラファイエットの屋上から眺めるパリの街

わたしの西洋好きは、過去と現在の想像の行き来が容易なことも理由にある。
あの作家たちが目にした景色にすぐに会いに行けるヨーロッパ。
ピカソが通ったあの上り坂も、モネとルノアールが互いを描きあったあの川も、ボナールが座り眺めたあの街角も、その場に立てば全てが実際にあったことなのだと理解する。
もしいつかタイムスリップができるとしたらそれは魅力的だが、私はそれは望まない。
過去の人々が残した記録と記憶の断片からその時代へと出かける想像の旅の方がきっと情緒的で面白く、それに向き合う今の人々の討論は人生最大の遊び道具だと思うから。

www.mitsukoshi.mistore.jp

会期は終了してしまったが、きっとまたすぐどこかで行われることを期待して。

木村伊兵衛のパリ ポケット版

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