《教会を知る Vol,5》教会から飛び出す気になるもの

西洋を旅していると私たちは必ず教会に出会う。
そしてその外周を何気なく歩きながら高々と聳える姿を見上げたところ、取ってつけたような気になる物体を見つけるのである。
日本では到底出会うことのないその存在は気になってしようがない。ましてや初めて訪れたのならば尚更。
私なんかは見つける度についついカメラを向けてしまう。

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二匹の何かが教会から飛び出している

パリのノートルダムの怪物たちが有名なので、その名を知る人も多いと思うが、これらは『ガーゴイル』と呼ばれている。
ではこのガーゴイルはなんのためにこんな不思議な形をしているのだろうか。

形の答えは簡単で、雨樋である。これは知ってる人も多いだろう。
西洋では古代の頃からこの飛び出した形の雨樋または水を吐き出す彫像というのはよく用いられていた。しかしそれもロマネスクの時代になると一度消えてしまい、改めて現れたのが、ゴシック期の大聖堂が建てられるようになってからであった。

日本の建築ではいまいちピンとこないが、大聖堂の姿を想像してほしい。
あの高々と聳える鋭い傾斜の屋根をつたい雨が滑り落ちる。伝う水は勢いを増し、そして私たち人間に凶器のような鋭さとスピードで降り注いでくるのである。これはなんとしてでも避けたい。
また西洋の教会は石と石を漆喰で固めて作られた建物である。壁をつたいひたすらに染み込んでくる雨水は、雨の多い西洋ではその接着を溶かしてしまう大敵だったのである。

そんなことから一度消えたかと思われた飛び出した雨樋は高さを誇るゴシック建築とともに復活を遂げたのである。

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ヴェネチアにあるガーゴイル。まさに雨樋の形

さて、ではその装飾性には何か意味があるのだろうか。
それぞれの経験で出会った種類は違うと思うが、私が出会った中でもただの半円柱、動物たち、人間、怪物と様々であった。
教会の装飾に関してはその地域性も含むこともあり、未だ謎が多く様々な研究がある中で、実は絶対という正解はない。なので私の中で今しっくりときている装飾の持つ意味を記しておきたいと思う。

ガーゴイルのモチーフを分類すると、以下の三つに分けられる。

  1. 動物
  2. 人間
  3. 幻想動物 

またその中で1の動物でも、善い動物と邪悪な動物に分けることができる。
一番わかりやすいのはこの善い動物と邪悪な動物の違いを知ることである。

善い動物とはライオンまたは犬などを指すのだが、彼らは番犬のような教会を守るものとしての意味を持つ。なので、教会の見張りやお守り的なモチーフということになる。

一方、邪悪な動物とは豚やロバや猿などを指す。彼らは昔からキリスト教ではタブーとされている罪を表す。(人間と表される時には罪人、浮浪者、大食漢、酔っ払い、遊び人などを指す)
なのでその戒めとして警告の意味が一つ。また教会の中に渦巻くその悪行を、水を吐き出すその姿に重ねて吐き出す役割をしているのである。

この二つの違いも知って、ゴシック聖堂の建築家たちはモチーフを選ぶのだが、それもそのうちに意味性よりもより装飾性とアイデアのバランスが勝るようになり、悪いものを吐き出す人間の像(これは口からやお尻からなどと様々)や夜道で見たらゾッとするような幻想怪物が増え始めたのである。
ロマネスクを経て、最高の技術を身につけた建築家たちにとって、聖堂の装飾品は絶好の腕の見せ所となるのだから当然ではあるが、ある意味自由に遊べるアイデア合戦の場ともなったのだ。

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パリのノートルダム大聖堂ガーゴイル。よく見ると奇妙な怪物の姿をしている

また西洋に行ける時には、ふと空を見上げる事を思い出して欲しい。
どんなガーゴイルがそこにはいるのか、どんなつもりでそこにいるのか。
番犬のように使命感を持ったガーゴイルもいれば、自分のようにはなるなと警告するガーゴイルもいる。自分ですら全く意味のわかっていないものもいるのだろう。
ゴシック期の建築家の遊び心のつまったガーゴイルは、私たち日本人にとっても最も気軽に楽しめる教会のモチーフかもしれない。

この話にはまだまだ深堀できる続きがあるのだが、長くなるのでまた違う時にでも。

  

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『モナリザ』がルーヴル美術館にある理由

前回せっかく重い腰を上げレオナルド・ダ・ヴィンチに触れたので、もう一つ、彼を通して書いてみたいことがある。

世界でも一番と言ってもいい有名絵画の『モナリザ』。
イタリアで生まれ、イタリアで育ち、フィレンツェ、ミラノ、ローマで活動したダ・ヴィンチのこの最後の傑作が、なぜ今フランス、ルーヴル美術館の所有で、そこに堂々と飾られているのかを知っているだろうか。
こういった場合、戦争での戦利品として持ち去られたというケースが多く、以前書いた「サンタ・ルチア」のミイラもそうだし、ローマのオベリスクもそうである。

ただ『モナリザ』の場合は違う。ダ・ヴィンチ自らがフランスに手渡したものなのだ。

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ダ・ヴィンチが生きた時代はまさにルネサンスの最盛期。豪華王とも呼ばれるメディチ家のロレンツォがこの時代を握っていた。今フィレンツェに豪華な美術品がひしめき合うのも、美へのこだわりを持ち、芸術にかけるお金を渋らなかった彼のおかげと言ってもいいだろう。
しかし何故かダ・ヴィンチは彼には気に入られなかった。
描く技術と魅力ではきっとフィレンツェで抜きに出ていたであろう芸術家をロレンツォは自国で大切に育てるでもなく、ミラノの公爵に紹介したのである。それはダ・ヴィンチフィレンツェだけに収まらなくなったきっかけともなる。

そのあとはそのミラノで16年を過ごし、パトロンの失脚や死去によりイタリア中を点々と渡り歩くこととなる。まさにこの時代に翻弄されるような人生である。
そして転機は1516年。ダ・ヴィンチの才能に惚れ込み尊敬と好意を寄せたフランス王フランソワ一世がその時代に翻弄されていたダ・ヴィンチに声をかけたのであった。

フランソワ一世はダ・ヴィンチにまず城を提供する。そして十分すぎる年金を与え、彼に自由を与えた。何を注文するでもなく、ただこのフランスにいてくれるだけでいいと言って。
今までわがままな注文に振り回され、やりたいことにも集中できないそんな人生を過ごしてきたダ・ヴィンチには最高の待遇であったのだろう。
500年後の今から見れば、その才能を最も近くで感じてきたイタリアがなぜ引き留めなかったんだと簡単に思うこともできるが、芸術家の溢れる変革の時代、芸術を求めるものも本当の美しさが見えていたわけではなく、私欲が優っていたのかもしれない。

フランスでの幸せな時間は3年間だったが、その幸せの中にダ・ヴィンチは永眠することとなる。(彼の亡骸もフランスのサン=フロランタン教会に埋葬されたのだが、こちらはフランス革命の戦火の中で行方知れずとなり、その後発見されるも未だ本物か調査中)
そして遺言にて彼がどこに行くにも持ち歩き、最後の最後まで描き続けたという、彼の最高傑作『モナリザ』をこのフランス王に遺贈すると遺したのである。
彼の人生を大切に思ってくれたフランソワ一世だからこそ、最も大切にしていたものを預ける決意に至ったのかもしれない

ということで、堂々たる理由を持って『モナリザ』は今、ルーヴル美術館の主役としてその存在感を見せつけているのである。

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この話は、実は今の日本においては他人事ではない問題だと私は感じている。
ダ・ヴィンチの話を見れば、なんでイタリアはあんな天才を最後まで大切にしなっかたのかと思うことは容易いが、日本でも今同じことが起こっているのではないかと私は思うのだ。
私自身、芸術大学に通い周りには多くの美術家を目指す仲間がいた。
そしていざ社会へと足を踏み入れた時、その足の置き場のない日本の現状を目の当たりにするのである。
そうなるともちろん、ダ・ヴィンチにとってのフランスのような、それぞれにとっての優しい居場所を探すのである。500年前よりもより簡単に他の国へと移ってゆく芸術家たちが、私の周りだけでもたくさんいる。

現在は国の時代ではなく個人の時代である。
だからその人が一番輝ける形で世界で活躍していることが一番だと思う。
けれども、もし日本という国がもう少しだけ芸の術、美の術に理解があればと。
学ばせるだけではなく、利益のためだけではなく、活動するための正当なチャンスがあればと。
今私も他の国へ移りたいと考え始めたからこそ、慣れ親しんだ自分の国にも希望を求め、つい願ってしまうのだ。

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私の苦手な芸術家、レオルド・ダ・ヴィンチ

大学生の頃一番面白いと楽しみにしていた授業が布施英利先生の『解剖学』だった。
そして最近布施先生の新書が出るということで、早速本屋さんで手に入れたのが『ダ・ヴィンチ、501年目の旅』である。

正直な話、私はレオルド・ダ・ヴィンチがあまり得意ではない。
世の中では散々彼について多くの書籍が出ている中、西洋美術も本も大好きな私が気がつくと避けていた芸術家である。
それがなぜか、この何ヶ月かで彼が私の周りでチラチラと顔を覗かせているのである。
まさかここの場でレオルド・ダ・ヴィンチについて書こうなんて、考えてもみなかったことなのだが、今がそのタイミングかと思い、一度今の想いを記すことにした。


まずなぜ私がレオルド・ダ・ヴィンチを避けていたか。
無意識が半分、また自身で気がついている点も半分ある。

一つはあまりに凄すぎるからである。
美術に興味がなくても誰でも知っている存在であり、芸術家としても研究者としても、軍事的な面でも、天才と言われる人物。私が少し彼について学んだからといって果たして理解ができるのか。できるとは到底思えず知ることすら遠ざけていた。

もう一つは絵画との向き合い方である。
彼の絵は計算の上で成り立つものが多い。黄金比へのこだわりや遠近法の扱いは、まずそれを叩き込んでからではないとレオルド・ダ・ヴィンチの作品と向き合ってはいけないのでは、というに気になってしまうし、人体についてもそうだ。構造を理解し熟知した上で向き合わなければ、彼の絵はなんの謎も私には解かしてくれないだろう。

なんとも子供じみた理由で恥ずかしいが、そんな想いも含め、無意識にも知ることを避けて生きてきてしまった。


ただ思い起こせば私は彼の作品をよく見ている(見に行こうとしている)ことにも気がつく。
モナリザ』も2作の『岩窟の聖母』も『最後の晩餐』も『スフォルツァ城の天井画』も。
そして今年予定していたフィレンツェでは『受胎告知』や『東方三博士の礼拝』、『キリストの洗礼』(これは部分だが)、そして今はなき『アンギアーリの戦い』の雰囲気すらも見にいく予定でいた。
気がつけば、最近、二回目の『ダ・ヴィンチ・コード』すら観てしまった。

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夏休みにしては空いていた『モナリザ

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『最後の晩餐』は唯一これを見るために向かった

ただこれには理由もある。私は「ミケランジェロ」にとても興味があるということだ。
実はどの場所も(『最後の晩餐』以外は)ミケランジェロを見るために向かった場所である。
同じ時代を生き、ルネサンスを築き上げた「三代巨匠」のうちの二人。(もう一人はラファエロ
ミケランジェロを知ろうと読む書籍には大抵、対になるようにダ・ヴィンチが現れるのだ。
最近読んだ一冊では「序章」から「ミケランジェロとレオナルド」の見出しが入り、その比較は永遠に続いていく。

そして極めつけるように新しい書籍を布施先生が出したことで、私が避けていたダ・ヴィンチと向き合う機会が今生まれてしまったのだが。ただ、布施先生の文章を読んでいると実はそこまで気負わなくてもいいのではという気持ちにもさせてくれる。まるで学生の時に戻ったようで、授業を受けているような言葉や筋立ての感覚は、めずらしく心地よいダ・ヴィンチ体験であった。

でも、それでも。多分これからも私のダ・ヴィンチへの劣等感や親近感のわかない気持ちは、そう簡単に消えていくことはいと思う。同じ人間とは思えないようなこの天才が、やはり怖くてたまらないし、知れば知るほど絵の前に立った時の見透かされたような感覚も増すような気がする。
その一方でいつまでも彼を無視しているわけにもいかないこともよく分かっている。
彼を通らなければ、ミケランジェロにも手は届かないし、本当のイタリアにも出会えない。
せめてフィレンツェに行く前に。(悲しいことに時間はたくさんできたから)
今はミケランジェロの陰からチラチラと顔を覗かせる彼と、正面から対峙する機会を作らなければいけない。

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旅をめぐるように話が進むので、なかなか旅に出れない今、おすすめの一冊。


 

パリで行きたい凱旋門

パリに来て、『凱旋門へ!』
というとシャルル・ド・ゴール広場のそれが真っ先に思い浮かぶのではないか。
まさにパリのシンボルのような存在感で、まっすぐ伸びるシャンゼリゼ通りのその先に堂々と聳える凱旋門
巨大な門から放射状に伸びる何本もの通りや、その周りを取り囲むようにぐるぐると走る車も印象的で、なんのルールもなさそうなこの道路は日本人からしたら少し異様な光景でもある。

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ただ、偏に凱旋門といっても、この一つを指すわけではない。
この有名な門にもエトワール凱旋門という名前があるように、パリには他にもいくつかの凱旋門が存在するので、ここで少し紹介したいと思う。

1.サン・ドニ凱旋門サン・マルタン凱旋門

1600年代に作られたいわゆる初期の凱旋門
凱旋門の役割を問われれば政治的、軍事的祝い事の際に、パレードがそこを通り抜けるイメージと答える人が多いかもしれない。が、本来の凱旋門といえば、軍事的事柄としての変わりはないが、お祝いではなくお祓いの意味をなしていた。
戦場で穢れた戦士がここを通ることで、そのまとわりつく負の気配を清めたのである。
見た目は違っても、日本にも通づる宗教観に少し親近感を覚える本来の門。
その意味を背負った凱旋門で今現存するのがこの2つである。

2.カルーゼル凱旋門

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ルーブル美術館からも眺められるこじんまりとしたピンク色の可愛らしい凱旋門
一見その姿から庭園用に設置した優雅さを演出する装飾のためだけの門のように見える。
ただ意外なことにこちらが、今も有名なあのエトワール凱旋門の元祖である。
ナポレオンが勝利を記念して建設を命じたのだが、そのサイズの小ささに納得ができなかったらしい。そこで2つ目の凱旋門の制作を命じ、こちらはなにもなかったことのようにその役目を担うことはなかった。
確かにあまり威厳があるとは言えないかもしれない。
ただ、当時のパリの華やかで装飾的な美しい印象は今の旅行ブーム、ルーブル宮の観光には一躍かっている。

3.エトワール凱旋門

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そしてこちらが日本では誰もが知る、シャンゼリゼ通りにあるエトワール凱旋門
前記したように作り直しの2作目であり、完成までは30年もの時間がかかった。
悲しいことにやっと完成をみた1836年、それはナポレオンが亡くなった後のこと。完成した姿を見ることのできなかったナポレオンが門をくぐり凱旋の時をむかえたのは死後、1840年のことだった。
本来であれば勝利の誇りと自信を身に纏い、大歓声の中であの巨大な門をくぐるはずだったのだろう。
切なくも完成した門への感想を彼から聞くことは叶わなかったが、最大名所の1つにもなった今の時代のこの門を眺めているのであれば、きっと間違いなくご満悦なことに間違いはないないだろう。 

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エトワールの凱旋門のように展望台があってそれに登ることが観光の目的なのも、望む絶景を思えばいいものである。
ただ門のくぐるという本来の目的で言えば、その門のストーリーを知ることも重要で必要なことだと私は思う。
その上でパリに点在する門たちをその歴史に沿って巡ってみるのはどうだろうか。
いつもと違ったパリの側面に出会えるであろう、一押しの観光プランになりそうだ。

・・・・・・

そして最後に少しおまけの話だが、私には次行く時に真っ先に訪れたい門がある。
パリの街で門の概念を作り上げた、最初の門といってもいい場所である。
門というのは外と内を分けるものであり、家にしても公共施設にしても、この意味のものが多いだろう。
以前のパリでは、美しいパリとその外は城壁で分けられ、その行き来をする出入口として37個の門が存在した。今では4カ所の跡地が残るのみであるが、これらはパリという魅力的な空間をはっきりと認識させた立役者なのだ。

私の凱旋門巡りのプランはこうである。
今は簡単に越えられるそのラインの間で、パリに憧れる気持ちを湧きたてながら、税関職員であったルソーの面影に挨拶をする。
そしてパリ始まりの入り口からパリの街に入り、時代の流れを潜るように凱旋門を巡って行く。
最後は夕焼けで金色に染まるアンヴァリッドのドーム教会のナポレオンのお墓へ。
エトワール凱旋門の感想を聞いてみたいと思う。

映画『ディリリとパリの時間旅行』ー目も想いもパリに浸るー

休みの取れなかったこの夏に、『ディリリとパリの時間旅行』というタイトルの映画は私には十分すぎるほどに魅力的だった。
特に以前『19世紀パリ時間旅行』という展示に行き逃し、泣く泣く図録だけを購入しひたすらに後悔した想いがあったらか、『パリの時間旅行』と聞けばそれは行かないわけにはいかない。

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監督のミッシェルオスロは以前『キリクと魔女』と言う作品で日本でも話題となったので、知っている人も多いだろう。私自身はアニメーション映画はあまり見ないこともあり、恥ずかしながら彼の作品を見るのは初めてだった。
今作の物語を簡単にいえば、2Dのアニメーションに合わせ、監督自身が撮影し集めたパリの風景、また現代的な映像表現をも組み合わせ再現したベルエポックの時代のパリを舞台に、2人の主人公が謎解きの冒険に出かける。
当時のパリの美しさに創造とリアルを交えながら、実在の偉人たちに出会い一緒に歴史を作り出す、なかなかに壮大なパリの冒険物語である。

最近はアニメーションも大人向けのものが世界中で増えてきている。
そしてこの作品も、一見物語の重要性よりも映像美を売りにした、大人のための美しく可愛らしい映画であるかのような顔をしている。(実際に館内にはあまり子供は見当たらなかった)
パリ好き、美術好き、歴史好きには、何度も見たくなるようなパリの景色と登場人物と綺麗なメロディーがたまらない。この映画の入り口はそんな印象であった。
ただ見終わった後に感じた印象は、監督も少し触れていることだが、パリの子供達が1番の観客になるべきものだというものだった。

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 19世紀初めからベルエポックのパリ。
それは信じられないほど重要で魅力的な人々を生み出した時代でもある。
ありえないシチュエーションではあるが、このフィクションの中で彼らを一度に目にすることでそんな当たり前のことに気づかされた。
普段は好きな美術家、歴史家としてそれぞれを眺めていたが、彼らは1つの街で同じ時代を生き、そしてその場所を作り上げてきた人たちなのである。
こんなにも素晴らしい人々が自分たちの街を築いたことに気がつく時、この映画を見たパリの子供達はその誇りを胸に成長できるのである。
なんとも羨ましくも考えさせる教育映画ではないかと思った。
もし日本でもこんなアニメーション映画があるならば、日本人は日本のことを知らないなんて海外から笑われることもないだろう。

 

またこの映画にはアニメーションであるがゆえの強さがもう1つある。
それは差別のない世界というメッセージがストレートに表現されていることである。
人種差別、性差別、労働差別が主軸になって展開される19世紀のちょっとリアルなパリ。
物語はじめの異民族を見せる人間動物園なんかは実話であるし、一歩中心から外れればそこは貧困層の汚れたパリがあったのも事実である。
実写であれば重苦しい場面も、アニメーションだからこその軽やかさで嘘のないリアルをしっかりと捉えている。
そして物語の単純さも海外アニメーションらしくはあるが、メッセージの軸をブラさない。
最近は映画やドラマが終わった後、結末や意味を考えさせたり、投げかけるものをよく見るからか、いけないことはいけないと言い切って終わる潔さはなんだか気持ち良く感じた。
ただその後には未だ解決しない差別という当たり前の問題をずっしりと思い出させる、深さも秘めている。

煌びやかで楽しいことだらけのパリでも、私たち日本人は未だに人種差別を受ける。
カフェではテラス席には座らせてもらえないし、子供に指を刺されて『ジャポネ』と言われたこともある。
日本にいると人種での差別はあまり身近ではなかったせいか、とにかく驚いたことをよく覚えている。
綺麗な顔をしているパリではあるが、未だ差別は考え続けなければいけない大きな問題なのである。
これからを創る今のパリの子供達へのメッセージとして、かなり計画的にこの映画は作られたのかもしれない。

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と、思ったことを書いてしまったがこの映画の見方はいろいろにある。
パリの街並みを堪能するのもいいし、旅気分を味わうのもいい。
物語を読み解いてみたり、歴史を学んだり、オペラ座を舞台にするだけあって音楽もとても心地いい。
私自身も今度は偉人探しに専念しながら、もう一度パリの時間旅行を堪能しようかと思っているところだ。
そしてなににしても、パリというこの魅力的な舞台を旅するのであれば、映画館で見ることをおすすめしたい。

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19世紀パリ時間旅行 失われた街を求めて

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2019年4月15日にノートルダム大聖堂で

今朝は妹からの「ノートルダムが燃えている」という連絡で目を覚ました。
最悪に衝撃的な事実に、悪夢が続いているだけであって欲しいと思った。
ただそれはまぎれもなく本当の出来事だった。
現地からあげられる映像や画像がより悲痛な想いを含んで、こんな遠い東京の地にまで受け止めなければいけない現実として渡ってくる。

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ユゴーによる『ノートル=ダム・ド・パリ』の序文には、なくなり忘れられるこの聖堂の歴史の切なさ、そしていつかこの聖堂すらなくなるのであろうとの結びの言葉が書かれている。
まさに今この時、その言葉の本当を見た気がした。
なくなるとは想像もしていなかったことが愚かなことだと思い知る。

何回も目の前を通りながらも、ノートルダムの上までは登ることはなかった。
今日も混んでいるからと、また次の機会にゆっくりこよう。
またいつか来ればいいと思っていた。
その『いつか』がもうなくなってしまった今になって、『いつか』という言葉の曖昧さには何の約束もないことを後悔した。

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焼け落ちてしまった木造天井部分

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ステンドグラスはどこまで被害を受けたのだろうか

今、パリの街は朝があけた頃。明るい中で受け止める初めての辛い現実。
ただそれは前に書いたヴェネチアの鐘楼の奇跡の話を思い出し、絶望だけではないのだと思った。
そこは全てが崩れ去ったにも関わらず、今は昔の姿を取り戻している。
ダヴィンチの『最後の晩餐』で有名なサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会もそう。壁しか残らなかった悲劇の時代があった。

少しずつ知らされる現状の中で、重要文化財や美術品、また聖母マリア像と十字架も難を逃れたと聞いた。
何時間しか経っていない間でも、多額の寄付やルーヴル美術館やポンピドゥセンターからの結束の意思表明などがあがっている。
パリの人々の文化や信仰への強い想いがきっと、新しいノートルダムを作っていくのだろう。

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なくなってしまったバラ窓

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美術品はどこまで助けられたのだろうか

何年かかるかわからない。
私はまたシテ島にそびえ立つノートルダムを見ることができるのだろうか。
そう簡単なことでもないのだと思う。
ただこの再建に向ける1つの想いがどう動いていくのか、その歴史の中で生きていくことはできる。
改めてパリの歴史を勉強しながら、少しでも何かできることがあるなら、それのために動いてみたいと思う。

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アトリエ・ブランクーシという作品

ブランクーシを初めて気に留めて観たのは大学に入ってすぐの時だった。
大学内にある美術館の舞台裏、所蔵作品の中であまりににもシンプルな金色のつるんとした塊が光り輝いていた。なんでもないのに異様な存在感を放つこれはなんだろうとその時は心に引っかかってはいたが、特に深く心に留めることもなく学生生活は過ぎていった。
それから6年後パリを訪れた時、あの鮮やかで現代的なポンピドゥセンターの広場の端っこに、ぽつんと静かに佇む平屋の中でまたあのブランクーシと出会った。
これが私にとってブランクーシと正面から対峙し始めるきっかけとなった。

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そこはブランクーシのこだわりの空間、アトリエををそのまま動かしてきたギャラリーである。
自身のアトリエをフランスに寄贈すると決めた時、ブランクーシとフランス政府との間で交わされた『アトリエをそのままに再現する』という約束の通り、当時のアトリエの配置も拘りもそのままに今も見ることができる。

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彼の様にシンプルすぎる形態も、今であればそこに勝手に意味を見つけたり、タイトルひとつで何かを物語ったり、コンセプトと言われるような文章があれば人は夢中で美術鑑賞に入り込む。
ただブランクーシの若かった頃にはそれも難しい問題だった。
アメリカではこれは芸術作品として認められるのかという裁判まで起きている。
彼が作り出した芸術は一見あっけらかんと悩みのないすっきりとしたものに見えるが、当時の『美術』という考え方を変えるほどに人々がざわつく出来事だったのだ。

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そんな苦労もさっぱり見て取れないくらいに、このギャラリーはただただシンプルに美しい形の連続とその配置の絶妙なバランス感覚によって、心穏やかな空気を流し続ける。
彫像を飾る台座も作品とし、上と下の重要性を均等にした彼らしく、アトリエの空間すらも作品との上下関係を持たせなかった。
立体と空間の調和こそが彼の作品なのである。
美術館で見かける凛と佇む彫刻も間違いなくブランクーシだが、『調和』を重んじるこの空間は彼の最高傑作だと私は思う。
周りをも巻き込むような緊張感、計算し尽くされた関係性、物体の周りにこそ彼独特の拘りがみえてくる。
こんなにも贅沢な作品展示はないと思うのだが、入場料金が無料というのもすごい。

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ここでは、気持ちのいいパリの陽光の中で思い思いに佇む立体を眺めながら、止まったような時間を過ごす人々が多い。
中にはベンチに座ったままうたた寝をしている姿もある。
めまぐるしく活気付くパリの中心部でここだけはブランクーシがいたその日のままで、人々を出迎える。
少し手を休めて出かけたブランクーシの帰りを、そこに残る制作途中の道具たちと一緒に静かに待ち続けているような様子である。

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屋根では大勢の鳩が日向ぼっこをしている

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Atelier Brancusi
Place Georges Pompidou, 75004 Paris, フランス
開館時間:14:00-18:00  火曜休館
入場無料