《教会を知る Vol,3》教会の管理人

教会を訪れるとその外壁にも内側の空間にも、見渡すほどに人の姿を掘ったり描いたりした図像に出くわす。
それが誰なのかと一人一人理解していくのは到底難しい話であるが、その中でも1番にわかりやすいのはキリストと聖母マリアだと思う。大抵は中央に描かれることも多く、当たり前ではあるが、その姿は誰にも見つけやすい。
しかし今回はその次に見つけやすい別の人物を紹介したいと思う。

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真ん中にイエス・キリスト、左に聖母マリア、その左隣がペテロ

それはキリストの最初の弟子であり、十二使徒のうちの1人、聖ペテロである。
彼を見つける目印は鍵。
これを持つ人物がいればそれはほぼペテロで間違いはない。
サイズは様々に通常の大きさのものから抱える程のものまで存在する。

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鍵を授けられる聖書の1シーン

彼が持つその鍵は『天国の鍵』
これによって教会を建てることが叶う、謂わば教会の守り主であることを象徴するモチーフである。
彼はキリストから使徒の長として選び出され、この鍵を授けられ、キリスト教を伝え広げることを許された。
教会に行ってみると、キリストから預かった大切な鍵をいつでも彼は、重要そうにそして少し誇らしげに抱えている。

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またたまに鍵を2つ(金と銀)、または本を持つ姿に出会うこともあるのだが、それは彼が初代のローマ教皇であることを示す持ち物である。

 

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教会の入り口正面で

教会を見てまわってわからないものに囲まれると少し悲しい気持ちになる。
一体何を描いて、描かれているものは何を意味して、どのように読み取ったらいいのか。
旅の最初の何箇所かくらいはそれでも良い。空間の持つ荘厳な雰囲気に圧倒されて素晴らしい気分に浸れる。
ただそれもだんだんともどかしさに変わってくる。
そんな時に1人でも知っている顔が見つかれば、それが誰だかわかるだけで、楽しみは増えるものである。
旅先で知人に出会うような喜びに、つい挨拶すらしたくなる。

次教会を訪れる機会があればぜひペテロに、教会を守り続ける彼への敬意も込めて一声かけてみるのはどうだろう。

ピカソと悲しみのミノタウロス

ピカソは自らをミノタウロスとし描き、語ることがよくあった。
幼少のバルセロナ時代に見ていた闘牛の生と死がせめぎ合う強烈な印象から始まり、ミノタウロス自体の神話とも繋がる、生涯切っても切り離せない彼の分身として。
ピカソにとってそれはスペイン人の本質でもあり、人間的な「悲しみ」を表す一つの側面であった。

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ギリシャ神話の中でのミノタウロスとは、クレタ王ミノスの妻であるパシパエと、彼女が恋した雄牛の間に生まれた頭は牛で体は人間の姿をした怪物を指す。
もちろんそんなことがあれば王が怒るのも当然で、ミノタウルスは迷宮へと閉じ込められた。その後何度目かの生贄として選ばれたテーセウスによって結局は退治されてしまうのである。
ミノタウロスに全く非はないのだがそれが運命なのが悲しい。

ピカソにとっては自分の通ってきた人生がこのミノタウロスに重なった。
悲しみを抱え、迷宮に迷い込み解放されることを望むもの。
彼は一生それを探し続けるのだがその役割を女性に求めつつも、最終的には絵を描くことで解放されることを繰り返している。
何度も迷宮へと迷い救いを求める人生。
天才というのもなかなか辛い。

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ミノタウロスを眺めていると、私にとって自分の分身のような存在とは一体なんだろうと考える。
やはり子供の頃からの強烈な記憶や印象はそれへと姿を変えやすいのかもしれない。
ただ今の所まだこれといったものは見つからないし、決めきれない。
ピカソのようにそれが一つとは限らないとも思っている。(フクロウも彼の分身として頻繁に現れる)
外に見える顔も内に隠す顔も、見た目や性格全ての側面に分身は見つけることができるはずである。
意図的だったり、ふと現れたり自分次第であったりなかったり。
今の時代、また今の私の生活の中で、自分とは何かという問いとただ向き合う時間は全くといっていいほどない。ただそれはいつかはやるべきことだと思っている。
まずは自分の分身を真剣に考えてみてもいいかもしれない。
ピカソにとってのミノタウロスが私にとっては何になるのか。そろそろ正面から向き合ってみたいと最近よく考えている。

《教会を知る Vol,2》 2種類のキリスト磔

美術館でも、本の中でもそうだが、キリストが十字架にはりつけられているにもかかわらず、目をバッチリと開いている姿に出会うと私は少し不気味に感じる。
それが薄暗い教会の中であれば、出会った瞬間ギョッとしてつい目をそらしてしまうだろうと思う。
それとは逆に目を閉じてぐったりと吊るされるキリストは、本来であれば痛々しい姿にもかかわらずいつも通りの見慣れた姿に安心する。

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この2種類のキリストの磔には昔の人々の全く違った心理が隠されている。
まず見分け方は簡単である。
目を見開き手足もピンと伸ばし脇腹に傷もない生きるキリスト。(洋服を身に纏っていることもある)

目を閉じ手足もだらっと垂らし脇腹に傷を持つ死せるキリスト。
私たちが教会で見つけやすいのは後者の方だと思う。

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この違いは以前も書いたように、元々の純粋なキリスト信者と、異教徒からキリスト教へと移っていったものたちの考え方の違いが関係する。
それは人間信仰か自然信仰かに大きく左右されるのだが、
前者の場合は人間の起こす奇跡が信仰の対象となる。
なので磔られ死んだとしても復活する奇跡を目の前に拝むことが求められた。
後者の場合は自然が最も偉大であり、そのために捧げる生贄が重要であった。
そのためキリストが自然への生贄として死をもってその身を捧げる姿を望んだのである。

この違いもクリスマスの日付のようにまた絡み合った複雑さを含むのだが、最終的に目を閉じたキリストを多く見かける今、そちらに軍配は上がり折り合いをつけたのだと想像する。

この目を開いたキリストに会うためにはロマネスク教会を訪れるのが一番の方法だが、昔の小さな教会は田舎にあるのが常で、それだけのために旅程を組まなければならない。
そんな時は都市にある美術館や博物館を訪れるのも1つの方法である。
宗教戦争などの結果ではあるが奇跡的に残った一部として展示されているその姿は見ることができると思う。

教会で出会う目を見開いたキリストに1人で会いに行くのは少し怖い。。
目が合ってしまったらどうしようかと思う。
特にゴシック教会とは違い、窓も小さく天井も低いより暗い暗闇の中で、その姿はきっとじわ〜っと浮かび上がるのだろう。
今回これを書くのに美術館では観たはずである目を見開いたキリストの写真を探してみたのだが、一枚も見つけることができなかった。
もしかしたら無意識のうちに、人間が生き返る奇跡に怖さを感じ避けていたのかもしれない。
ただ、いつかは小さな教会に足を運び、それに出会おうとは決めている。

偶然のお土産

旅の最中にある必然の出会いの中に、ふと、偶然の出会いが紛れ込むことがある。
今年の春に起こったそれは、ヒエロニムス・ボスの祭壇画との対面であった。

ヴェネツィアのアカデミア美術館。
そこにあったのが『聖女の殉教』という三連祭壇画である。

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『聖女の殉教』ボスが貼り付けの女性を描くのは珍しい

本来はオランダのシント・ヤンス聖堂の祭壇にあったのではと云われており、その後ヴェネツィアの貴族であるグリマーニ邸に飾られていたらしい。
なぜヴェネツィアに渡ったのかは謎であるが、その後もドゥカーレ宮で祭壇画として飾られていた。
それからはウィーンへと移動することとなり、なぜかまたヴェネツィアに戻ってきたのだが、火災の損傷もありその後はなかなか見られることがなかったものである。
修復後グリマーニ美術館が所蔵し、公開しているとは聞いていたが、ここで急に現れるとはまさに思ってもいない出会いだった。
修復を終えた記念に巡回展がささやかに開催されていたらしい。

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彼の場合は人生そのものが謎に包まれており、これだけの知名度がありながら作品数もダントツに少ない。25点の油彩画と8点のデッサンだけが現在認められているが、それだけだ。
それもボスに出会えた驚きの理由の一つである。

ボスは画家の一族に生まれ、画家になるべくしてなった。(一族の描いた絵画作品は一つも残っていなのだが)
裕福な女性と結婚したこともあり、お金には困らずただただ好きな絵を描き続けたと云われている。
絵だけを見れば変わり者のようだが、敬虔なキリスト教信者でありモラリストでもあった。絵の細部にキリスト教にまつわる事物が散りばめられていることは、それをよく物語っている。
彼のことは他人の記録か公の記録しか探る方法がないので、議論の範囲での情報が多い。ボスがどんな人生を生きていたかは年代も含めわからないことだらけである。
そのため描いた内容にしても解明されず、未だ多くの議論が渦巻き続けている謎の人物の代表格である。
ただそれは今になっても尽きない話題として人々が思考を巡らすのだから、今後もこの画家は忘れられ古びることはないのであろう。

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アカデミア美術館 中庭

旅に出る時、観たい絵画、彫刻、教会と調べてそこに向かうことは多い。
なのでそれらは決められた出会いであり、必然として目の前に現れる。
それは長く待ち望んだ瞬間で、対面するまでの学びや想像の答え合わせをする大切な時間である。
ただ稀に、このボスのような突然の予期せぬ出会いはその旅に思わぬ楽しみを与える。
その瞬間の驚きもいいものだが、日本に帰ってきてからの調べ考える時間は最高のお土産である。
特にこんなにも謎めいたことだらけの彼であればなおさら、いつまででも楽しめる。

この出会いに感謝しながらも、また次に起こるであろうその偶然がもうすでに待ち遠しい。
ただそれはきっと忘れた頃にやってくる。
なので心の隅に期待を隠しておかなくてはならない。

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アカデミア美術館 Galleria dell'Accademia di Firenze
開館時間|8:15-18:50
休館日|月曜


goo.gl

www.galleriaaccademiafirenze.beniculturali.it

 

奇跡に出会う旅 -ヴェネツィアで-

人間、『奇跡』という言葉にはつい惹かれてしまうのではないかと思う。
長く歴史に残るそれであれば、私にとっては更に魅力的に輝く。
ヴェネツィアに向かう前、手にした本の中に書かれていたガラスの奇跡は、そんな私を簡単に魅了した。

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ムラーノ島

ヴェネツィアと言えばヴェネツィアングラスをお土産にと考えない人はいなくらい、ガラスは有名な産業である。
無色透明なガラスを初めて作ったのもここヴェネツィア
特に本島から船で20分ほどのところにあるムラーノ島は、ガラスの島としてその名はよく知られている。
そのムラーノ島のガラス博物館に奇跡のガラスは飾られている。

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その奇跡は本島の一番賑やかな場所、サンマルク広場の鐘楼で起こった。
約100年程前、その鐘楼が一瞬のうちにその姿を崩すという事件があった。
一週間ほど前から亀裂が少し見えてはいたが、これといった予兆はほとんどなかった。
突然上からまっすぐ下へ、内側へ巻き込むような、奇跡的な崩壊が起こったらしい。
そして奇跡的にも誰も亡くなる事もなく、周りの建物すら少し削れる程度の被害で済んだと言う。
この時点でもすでに奇跡的なことが続いているのだが、この後その粉々になった瓦礫の中から無傷のガラスが見つかったのである。
すべてのものが跡形も無くなった中からそれは発見されたのだ。
これこそ奇跡のグラスである。
そしてこのグラス、鐘楼の崩壊前には誰もその姿をみたことがなかったらしい。
奇跡とともに少しミステリアスな香りもする。

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実際の奇跡のガラスは時とともに上下がかけてしまっていた。
ガラスというのは本当に脆く、儚い素材である。
ただこれを見つけた時の人々の驚きと、感謝はここに大切にしまわれている事実がしっかりと物語っている。
確実に奇跡は起こっていたのである。

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このガラス博物館には以前日本のテレビでも紹介されていたもう一つの奇跡のガラスも展示されている。
こちらは技術の奇跡である。
このガラス、人が歩く振動だけで螺旋を描く足の部分が、まるで柔らかい何かのように揺れるのだが、。
恐ろしい鑑賞体験であった。歴史的美術品を壊すかもしれない恐怖と隣り合わせなのだから。
でもただとても美しい奇跡であることには間違いない。

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ムラーノ・ガラス博物館

ヴェネツィアに行く機会があればここはぜひお勧めしたい場所である。
そしてその道すがらも私のお気に入りなので、またそれについても書きたいと思う。

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ムラーノ・ガラス博物館
Fondamenta Marco Giustinian, 8, 30141 Venezia VE, イタリア
開館時間 | 10:00-17:00
一般チケット | 12€
website |

museovetro.visitmuve.it

goo.gl

クリスマスとは何の日か

ハロウィンも終わると本格的にクリスマスの雰囲気で街中が彩られてきた。
日本人は一年中何かしらのイベントを楽しみにする幸せ体質だと思うのだが、中でもクリスマスはより特別なものらしい。

クリスマスをなぜクリスチャンでもない日本人が祝うのか。という話題はよく耳にする。(すでに祝うという過ごし方ではなくなっているが、。)
たしかにそうだ。プレゼントを楽しみにしていた子供の頃とは違い、今は何をしたらいいのか毎年悩む。ミサに行くわけでもないので特にすべきことがあるわけでもない。

ただそもそもがキリスト教の大切な日、というのも間違っている。
本来12月25日は西洋の冬至の日であった。
冬が一番深く最も日の短い日であり、明日からは温かい季節に向う節目の日。
新たなことが始まる希望のお祝いとして。
そう聞けば季節の移り変わりや事物を大切にする日本人にとって、祝ってもおかしくはない身近な日に見えてくる。

 

ではなぜそんな特別な日が今はキリストの誕生日として伝わるのだろうか。
それはキリスト教の根本的な考え方と布教活動の方法に答えがある。
まずひとつにまだ異教徒も多かった西洋では、他の宗派のお祝いの日を塗り替えキリスト教の祝日として浸透させる方法がよく用いられていた。
キリストの誕生日と聞くと確定事実のように思われるが、実際にはそれがいつなのか福音書には記載がない。そのため仮に1月6日をそれとして決めてはみたが、ちょうどよく12月25日に異教徒のお祭りがあったため、そこに上塗りして誕生日と改めたのだ。

またキリスト教が広まる前の時代、人々は自然を神と祀る考え方が基本だった。それは海を越えた日本でもそうであるが。
ただキリスト教はその時代に珍しい。キリストが神であり自然よりも人間の奇跡を偉大と考えることを基本に持った。
そのため自然を神と祀るお祭りは都合が悪く、キリスト教を広めるためにはその考え方から変えていく必要があったのだ。
実際にこの考え方の違いは今でも複雑に絡み合っている。教会や習慣を見てもいたるところで折り合いのつかない矛盾が見える。またそれについては書きつくせないのでおいおい。

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聖母マリア信仰もそのひとつである

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ゴシックの教会の上へと伸びる柱は、高く生茂る木々を想起させる

私はクリスマスを楽しむ習慣が嫌いではない。
この時期に他の国へ旅に出ることはあまりないが、(つい年末は日本にいるのが普通になってしまって、) 色々な国のクリスマスを巡り旅するのもいつかの楽しみである。
その地独自の考えとキリスト教の教えの混ざり合ったクリスマスの姿はきっと無数に存在する。
そのお祝いの中に自然への敬意を見つければ、異国ながらも共通する根底の想いにそのルーツの近さを感じるかもしれない。
そして見つける度に、私自身も12月25日にお祝いをすることへの違和感はだんだんと薄れていくのだろう。

 

命名に共通する小さな悪意 -ロマネスクとゴシック-

普段私たちの使用している何気ない用語には、過去の人々の小さな悪意が潜んでいることがよくある。 
妬みやプライドがそれらの言葉を作り出すのだが、その事実は薄れ意味を除いたその言葉単体で人々に認知されているのを目にすることは多いのだ。
実は教会の様式をあわらす『ロマネスク』や『ゴシック』もその一つである。

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『ロマネスク様式』の由来から見ていきたいと思う。

これはウィリアム・ガンという人が本の中で記したのが始めとされている。
ローマ人は自らを『ロマーノ』と呼ぶのだが、長くローマで暮らしていても出自が定かではなく、ローマ人として認められないものは『ロマネスコ』という烙印を押されていた。
それを語源とし、語尾にイタリア語で『〜風』という意味の『〜esco』を付け加え『ロマネスク様式』という言葉が広まっていく。
いわゆるローマ風建築という意味だが、ローマ建築のふりをしているが出自が定かでない建築、『ローマーもどき』を意味する言葉である。
この建築を認めないとする悪意が隠すことなくこもっている。
ただ悪意は人々には魅力的な話の種となり広く広まっていくのだが、。

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ゴシック様式』の由来はこうだ。
12世紀の半ばが今でいうゴシックの始まりになるのだが、その頃は『現代様式』と言われていた。( 確かに今の時代のものを私たちも現代アート現代建築などとくくっているのだから何年も経った後にはまた違った名前がつくのかもしれない。)
その後13世紀のドイツでは『フランス様式』と言われ、15世紀、16世紀のイタリアの文化人たちの間でやっと『gotico (ゴチコ)』というゴッシクの由来となる呼び方が広まっていく。
この語源に問題がある。
『gotico』とは『ゴート人の様式』を意味するのだが、このフランス発祥の様式についてイタリア人の軽蔑の意が込められているのだ。
実際はゴート人とはスウェーデン南部に住むゲルマン民族の1種族であり、フランス人とは全く関係がない誤認でもあった。ただこの様式への軽蔑心からかイタリアを発祥にその呼び名は広まっていく。
悪い噂というのは今も昔も本当に広まりやすいのだ。

他にもいろいろなところで悪意のある言葉が定着している。
有名なもので言えば『印象派』もそうである。
モネが自ら名付けた『印象』という名の絵画を見た批評家ルイ・ルロワが、確かに印象を捉えただけで壁紙よりもひどいと、雑誌内で『印象主義者の展覧会』として酷評した。
今ではその印象の美しさが良しとされるが、当時のアカデミックが主流であった頃にはバカにする言葉としてはぴったりだったのだ。

どれもそうであるが、その後も悪意のない言葉へとは変えず、その言葉を当然のように使い続ける。
可笑しな念でも入っていそうなものだが、それを表す言葉として定着し時代を超えても愛され続けるのだから、皮肉なものである。
逆にその名前があったからこそ、一つの認識として人々の間で長く伝わることを可能にしたのかもしれない。
そしてそんな想いを含むからこそ、歴史として、物語として記録となって語り継がれるのである。
そんな過去を伝える術ともなった彼らの悪意に、少し感謝をしなくてはいけない。