シャルトルブルーよりも美しいこと

シャルトルブルーが美しい暗がりの中で浮かび上がる、そんな神秘的なステンドグラス。
ただのブルーではなく、長い時間をかけて空気中の微生物を身に纏いながら深みを増していった、誰もが見惚れるシャルトルブルー。
ロダンをも魅了し幾度も通わせた大聖堂だ。

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私の祖父は民芸運動の時代に型染めの作家をしていたのだが、よく西洋のモチーフを掘り描くことに没頭していた、大の西洋フリークでもある。
祖父の絶対見るべきとの遺言もあって、私は最高の期待を持ってこのシャルトル大聖堂を訪れた。

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2016年4月、足を踏み入れたそこは、はっきり言ってしまえば、チグハグという言葉がはっきりと浮かぶものだった。
もちろん歴史的にもロマネスクとゴシックが混ざり合う芸術的コントラストの美しさで有名ではあるのだが、それとは違う暗闇のような重い空間と真新しい輝くような白い空間が混在した不思議な世界になっていた。
入った瞬間シャルトルブルーに魅せられるのだろうと想像していた私にとってそれは衝撃だった。
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その時は建て直しの最中であったのだろう。
線を引いたように古びた黒色の石と新しすぎるほどの白色の石があちこちでぶつかり合っている。
繊細な美として楽しむシャルトルブルーにはあまりにも周りが騒がしかった。

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その感想を抱いてからちゃんと考え始めるまでに少し時間がかかったと思う。
朝と夕方に二度訪れ、眺めるうちにふと思った。
そういえば教会も『用の美』である。通い使う人がいて初めてその存在となる。
朝通い、昼通い、夕にも通い、地元の人々が自然と足を向け祈る大切な場である。
つい美術品として楽しんでいたが、そんなことはどうでもいいのだ。
明日も来年もその先も、変わらずお祈りができるこの美しい空間をこの地の人々は守っていかなければいけない。
以前、改修された平等院鳳凰堂を拝観した時にも、新しすぎる朱の輝きを残念に感じたことがある。
つい長い年月の生み出したワビや味のあるものに感動を覚えがちだが、長く愛され使われるからこそこの先に絶えさせることのないよう修理が必要なのだ。
直すという行為は守り続けることの証であり、そこには感動すべき人の心も混ざり合う。

この日のシャルトル大聖堂への訪問は、私の教会巡りの中でも忘れてはいけないものとなった。
本来の教会としての生きていく姿、その途中に居合わせたことを強く実感する。
ただの美術品でも遺跡でもない、人の集う場として働き続ける偉大さ。

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夕刻のやわからかな光の中、暗がりの石と白く輝く石が朝とは違う見え方で混ざり合っていく。
パキッとしたラインから揺れるラインへと変わり、お互いの色味が寄り添っていく。
これからまた何年もかけてこの教会はそれを大切に想う人とともに、新しい色を作り上げていく。
次に来るときにはどんな景色に変わるのか、本当に楽しみである。

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Cathédrale Notre-Dame de Chartres
シャルトル大聖堂

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